労働基準監督官のイラスト
柱が立てられた大型建物を含む纒向遺跡の建物遺構=桜井市で2021年7月12日午後0時6分、姜弘修撮影
https://amd-pctr.c.yimg.jp/r/iwiz-amd/20210717-00000013-mai-000-1-view.jpg

 邪馬台国の有力な候補地、纒向(まきむく)遺跡(奈良県桜井市)を調査・研究している桜井市纒向学研究センターは、2022年に迎える設立10周年の節目に合わせ、記念論集を刊行することを決めた。市は刊行費用に充てるため、ふるさと納税制度を活用したクラウドファンディング(CF)で寄付金を募っている。

 纒向遺跡は3世紀を中心とした大規模集落遺跡。東西約2キロ、南北約1・5キロと広大で、2009年にはJR巻向駅近くで「卑弥呼(ひみこ)の宮殿か」と注目された3世紀前半の大型建物跡が見つかった。発掘調査は20年度に200回に達し、21年には最初の調査から50年を迎えた。

 同センターは纒向遺跡の調査・研究、保存活用を担う機関として12年4月に設立。成果をまとめた「纒向学研究」を毎年刊行し、年2回の纒向学セミナーや、東京フォーラムを開催している。

 設立10周年に向けて刊行を目指すのは、記念論集「纒向学の最前線」(仮題)と、これまでの計14回の纒向学セミナーを書籍化した「纒向学からの発信—纒向遺跡をめぐる古代社会」(同)。記念論集は第一線の研究者らが執筆し、700ページを想定している。

 CFの目標金額は450万円で、募集は10月4日まで。寄付金額に応じ、記念論集▽所員と巡る纒向遺跡ツアー▽寄付者限定の纒向学セミナー▽木製仮面ストラップ——などオリジナルの返礼品を用意している。市纒向学研究センターの担当者は「CFを通じ、積み上げてきたセンターの活動を広くアピールできる機会になれば」と話している。

 ふるさと納税サイト「ふるさとチョイス」の「ガバメントクラウドファンディング」のページで公開されているプロジェクトから申し込む。プロジェクト名は「ヤマト王権誕生の地から、最新の研究成果を大発信!」。問い合わせは同センター。【姜弘修】

 ◇「日本最初の霞が関」寺沢薫所長

 桜井市纒向学研究センターが設立10周年を迎えるにあたり、「纒向学」の命名者でもある寺沢薫所長(70)にこれまでの成果や今後の課題を聞いた。【聞き手・姜弘修】

 JR巻向駅近くの市有地(旧纒向小学校跡地)に計画していたガイダンス施設の整備が(財政的な事情で)先送りになったのは残念だが、それ以外の調査・研究面では、ほぼ100%の成果を上げてきたと思っている。

 纒向遺跡は日本の国家史を考える上で極めて重要な遺跡。止めることなく調査と研究を続け、わかりやすく市民に伝えていくことが遺跡の保存と重要性をアピールする一番の方法だ。センターはそこに力点を置いており、10周年のけじめとして記念論集を総力を上げて作りたい。

 ヤマト王権の最初の王宮が造られた場所だということは、この10年間で大方定着してきたと思う。特に(大型建物跡が出た)「第1次王宮」は、10年間でほぼ明らかにすることができた。第1次の次があるはずで、今度は3世紀後半の「第2次王宮」を探し、確定しないといけない。

 私の言い方では、ここは「日本最初の霞が関」で、個人的には各官庁のはしりみたいなものを見つけたい。各地から人々が出仕してきた「出張所」が集中していただろうと考えられ、点ではなくエリアとしてわかってくると面白い。

 纒向遺跡から発信することは山ほどあるんだと、纒向学は小さな地域の名前が付いているけど、この国全体のことをアピールできる学問なんだと、次の10年で一般の中にも根付かせたい。

毎日新聞 7/17(土) 9:54配信
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20210717-00000013-mai-cul
  1. 奈良公園では鹿がのんびりと憩っています
  2. 邪馬台国の候補地として散々言われて続けている纒向遺跡だけど、
    シュートが決まらない昔の日本代表のFWみたいに、
    いつまで経っても決定打が出てこないんだよねぇ。

    違うんじゃないの?
  3. 大昔の中国の文献を信じ切って奉る日本。
    21世紀の中国でもいい加減だと思う。
  4. 邪馬台国畿内説なんてほぼ無いのに
    金集めるなんて詐欺まがいの行為だろ
  5. 捏造に必死な団塊世代
  6. https://translate.google.co.jp/?hl=ja&;sl=hu&tl=ja&text=Tev%C3%A9k%20ura!%20Te%20tev%C3%A9l%20tev%C3%A9v%C3%A9%20engem%20eleve%2C%20Teveled%20nem%20%C3%A9r%20fel%20tevefej%20t%C3%A9tova%20veleje.%20Te%20terved%20vet%C3%A9%20a%20tevevedel%C5%91%20tavat%20tavaly%20t%C3%A1vol%2C%20de%20t%C3%A9vedn%C3%A9l%2C%20v%C3%A9lv%C3%A9n%2C%20v%C3%A9n%20h%C3%ADved%20neved%20feledve%20elvetemedve%20v%C3%A1dol.%20Nem!%20Vidd%20te%20tevelelkem%20hovatov%C3%A1bb%20tova%2C%20mivel%20levet%20-%20vert%20vederbe%20feltekerve%20-%20nem%20vedelve%20lett%20betelve%20a%20te%20tev%C3%A9d%20szenvedelme.%20Te%20nevedbe%20legyen%20eme%20neveletlen%20tevetetem%20eltemetve!%20S%20evezzevel%20ava%20teve%20levelk%C3%A9v%C3%A9t%20kivilevelhevelteve.&op=translate
    🤔
  7. 畿内説=大多数の考古学者が支持する学説
    九州説=高校生レベルの知識さえないド素人が信じてる俗説
  8. >>15
    ということは、
    高校生>>>>|来れられない壁|>>>>大多数の考古学者
    ということだなw
    これが日本の考古学の姿だw
  9. >>11
    犯罪だよな。
  10. https://translate.google.co.jp/?hl=ja&;sl=ja&tl=hu&text=%E5%BE%B9%E5%BA%95%E7%9A%84%E9%89%84%E7%AC%9B%E3%80%81%E3%81%A7%E3%81%A3%E3%81%A6%E9%89%84%E3%82%AA%E3%82%BF%E3%81%AB%E3%81%AF%E9%89%84%E6%8B%B3%E3%81%AB%E3%82%82%E3%81%AA%E3%82%89%E3%82%93%E3%81%A7%E3%81%A3%E3%81%A6%EF%BC%81&op=translate
    🤔
  11. 邪馬台国スレが立つと安心する
  12. 阿波のおっさん推賞の現在の徳島県三好町の大柿遺跡は日本最古の棚
    田の遺跡であって、それはアマテラスの水田の神話とも強い関連があ
    るのではないか?
    アマテラスの意味の解釈だが、アマ(天)のような高い場所に水田を
    作り、天(太陽)に照らすという解釈を仮にすれば、棚田はアマテラ
    スの意に適う。
    魏志倭人伝の地理関係の記述はともかく、古代の日本の海民にとって
    は、島嶼(とうしょ)的にバラバラの飛び地を一体化した地域として
    捉えていた可能性もあるのではないか?
    海民にとっては近くの島は隣地。
    また、「魏志倭人伝(ぎしわじんでん)」によると、倭(日本列島)
    の山では丹(辰砂)が採れ、女王卑弥呼が中国王朝に丹を献上したと
    されるが、徳島県阿南市の若杉山遺跡は日本最古で紀元3世紀のもの
    とされており、卑弥呼の辰砂のソースである可能性がある。少なくと
    も、卑弥呼と交渉があった可能性がある。
    邪馬台国が海を隔てた島々の連合体だった可能性がああるのではないか?
  13. >>24
    続きだが、アマテラスの「アマ」を「甘」と見れば、アマテラスは
    「甘く(美味く)照らす」となり、棚田の米が美味しいという現代
    の常識とも一致する。
  14. >>24
    その大柿遺跡関連。

    「弥生時代終了までイネに替わり、アワ・キビ・ヒエなどが主流」

    弥生時代前期末から中期初頭(2400年〜2300年ほど前)にかけて、西日本一帯で発生した大洪水により、灌漑水田稲作は壊滅である。 
    この洪水被害は大規模かつ広域的なもので、京都盆地や奈良盆地、岡山平野、博多平野、濃尾平野など広く西日本一帯で確認されている。
    その大洪水により、阿波においては弥生時代中期初頭には各集落が小規模化し、一部で「大柿遺跡」の棚田がみられるが、
    縄文的な生業と地域社会へ回帰するような様相をみせる。
    弥生時代前期中葉に大規模化した灌漑水田稲作経営は、災害の影響もあって一段落したものと考えられている。
    土器の植物種実圧痕観察(レプリカ法)により、弥生時代終了までイネに替わり、アワ・キビ・ヒエなどが主流であったようだ。   
    徳島大学大学院 准教授(当時) 中村 豊氏   @阿波
  15. ヤマト王権の古代学—「おおやまと」の王から倭国の王へ / 坂靖(著)

    著者は次のように指摘します。
    「ヤマト王権は、布留式期に日本列島各地に強い影響力を行使することをはじめたのであって、初期のヤマト王権の版図は、きわめて限定されていたとみるべきである。・・・弥生時代中期から後期の近畿地方においては、中国との直接交渉を示す資料がほとんど知られていない。楽浪形土器は北部九州に集中し、松江市以東にはまったく認められない。邪馬台国の時代、すなわち庄内式期においても、魏と交渉し、西日本一帯に影響力をおよぼしたような存在が、奈良盆地にはみあたらない。邪馬台国の所在地の第一候補とされる纏向遺跡の庄内式期の遺跡の規模は貧弱であり、魏との交渉にかかわる遺物がない。・・。さらに女王卑弥呼の居所は、出入りするものは男子が一人いただけであり、そこに宮室・楼観・城柵が厳かに設けられ、常に人がいて、兵が守衛するような場所であったと記されるが、纏向遺跡にはそのような場所を認めることはできない。」

    「小林行雄氏によって『魏から卑弥呼に下賜された三角縁神獣鏡が、某所で保管され伝世し、古墳の成立とともに大和政権(ヤマト王権)から各地の首長に配布された。各地の首長は、三角縁神獣鏡の同笵鏡を分有することによって、新たな権威を与えられた』という仮説(1961年)が提示されたことはよく知られるところだろう。小林説の成否をめぐる論争は、30年以上つづけられているが決着をみていない。・・・三角縁神獣鏡は、その文様を組み替えることにより、多種多様な鏡がつくられた。そして、同笵鏡と呼ばれるコピーがつくられた。粗製乱造とはいえないまでも、大量生産されたものであることは確かである。・・・中国と交渉するなかで、ヤマト王権によって、『おおやまと』地域において、あらたに創出された鏡が三角縁神獣鏡である」。
  16. >>31
    >中国と交渉するなかで、ヤマト王権によって、『おおやまと』地域において、あらたに創出された鏡が三角縁神獣鏡である

    中国と交渉するなかで、倭国(阿波)王権によって、『倭』地域において、あらたに創出された鏡が三角縁神獣鏡である。   @阿波
  17. >>1
    魏が倭国30カ国が女王を共立して〜と書いているんだから
    邪馬台国が畿内なんてあり得ないんだよ
    倭国=九州というのが古代中国王朝の認識だったんだからw
    畿内説唱えている奴は、そんな常識を知らない無知晒している


    例えば新羅の代4代の王は倭人だとされている

    『三国史記』新羅本紀・脱解尼師今紀は、誕生及び即位については以下のように記している。

    倭国の東北一千里のところにある多婆那国で、その王が女人国の王女を妻に迎えて王妃とし

    つまりここでも九州北部だけを倭国として
    丹波は倭国から1000里離れた地と説明されている
    明かに古代中国や朝鮮半島の倭国と言う呼び名は九州だけを指す言葉

    中国人の認識は例えばここ
    https://cd.hwxnet.com/view/badgdjmjgklcfkjb.html

    https://i.imgur.com/3AEHbLm.jpg

    もう一度言うよ
    倭国とは倭人が住んでいた地域を言っていたわけじゃなくて
    中国や朝鮮では倭国=九州

    だから倭国30カ国が共立した女王の邪馬台国も倭国にあった国
    つまり邪馬台国は九州にあったんだよ

    これが真実
    倭国連合の邪馬台国が畿内に遭ったなんて、言っているのは情弱ってこと
  18. >>39
    倭国は57、107年の倭奴国王の事
    倭 古倭奴国者となる

    日本が卑弥呼、壹与の邪馬台国の事。
    もとは倭国の小国。
    隋書 邪馬台国者
  19. >>41
    隋書は
    日本からの遣隋使が邪馬台国の後継と偽称したので
    そのまま記載しているだけ
    卑弥呼の時代も、その後の時代も
    邪馬台国は九州にあった国
  20. >>39
    けど4世紀末の朝鮮半島侵攻したのは大和朝廷で
    その大和朝廷は好太王碑文で倭とされてるわけだから
    倭=九州ってそこまで固定観念ってわけでもなかったような
  21. >>42
    ないな。都合悪いもんは偽証?
    すると旧、新唐書も偽証となる。
  22. >>43
    >けど4世紀末の朝鮮半島侵攻したのは大和朝廷で

    4世紀末に大和朝廷はまだない。   @阿波
  23. >>44
    少なくとも新唐書は�「然の偽書に騙されてメチャクチャだけどね。
  24. >>46
    まあ、記紀は既にありだからな。
    合わせる。偽書なのか、改定中なのか定かではない。
  25. >>44
    偽証じゃなくて
    大和の遣隋使が
    魏と外交を確立していた邪馬台国の
    後継として偽称したということ
    その方が外交上都合がいいと考えたのだろう
  26. >>47
    いやいや
    新唐書には大きな矛盾があるよ。
  27. >>54
    どう言う質問か?
  28. 中国の学者たちが九州だって言ってんのに、
    今更、小日本人どもが何をもめてるんだよw
  29. >>57
    質問の内容は書いてない
    だけど日本の使者は明確に質問に答えようとしないので
    信用できないと記載されている

    唐書のほうは唐側の感想がこのように書かれているが
    隋書はただ日本の使者の言い分をそのまま載せているだけ
  30. >>58
    ヒント 島国根性、井の中の蛙
  31. >>59
    隋の使者が行っている。
    質問内容がわからない
    中国側の意図がわからない。
  32. >>59
    嘘とも言えないだろー。
  33. >>65
    なんか日本語が不自由な奴だな
    ちょっと意味がわからないがw
    中国側が日本の使者に質問して
    明確な答えが無くて、日本の言い分はいまいち信用ができないと言っているのは
    隋じゃなくて、唐の時代のことな

    隋は隋側の感想は書かれていてない
    ただ日本の使者はこう言っているということをそのまま書いているだけ
  34. >>68
    だから嘘とは断定できない。
    根拠がない
  35. >>27
    >>弥生時代終了まで稲に替わり雑穀が主流だった。

    それはアマテラスが保食神うけもちのかみの稲も雑
    穀も歓迎するところとも一致する。
    オオゲツヒメを主祭神とする上一宮大粟神社が徳島
    県名西郡神山町という山間部にあるのも面白い。
    剣山系は一昔前は日本の代表的な焼畑地帯で棚田と
    焼畑が混在してたのか。
    徳島のオオゲツヒメ神社と似たのに、高知の神母神
    社があるが、これは高知県下で100以上あったかも。
  36. 旧唐書の倭国の条に
    倭国者 古倭奴國也 阿毎氏。
    邪馬台国の記はない。

    別種だった邪馬台国が日本。
    2人の女王が共立され、倭国が女王国となった。
    もとは小国
  37. つまり
    大和から来た遣隋使が私たちは日本の使者です
    日本という国は大昔の邪馬台国の後継ですと言って外交デビューしたのを
    そのまま書いてあるだけの隋書の内容は何の証明にもなっていない

    唐書では日本は倭国の別種なり、元は小さな勢力だったが
    倭国を併合して大きくなれり、どうも日本人の言っていることは信用できない
    と日本という国に対する詳細な説明と唐側の感想まで書かれているので
    隋書に比べると数倍参考になるということ
  38. >>76
    嘘という証明もない。
    だから旧唐書を上げている
  39. >>63
    >吉備を中心とした外来諸勢力

    それを、「忌部一族(阿波勢力)」と言う。  よく理解し、覚えておくように!   @阿波
  40. >70
    「阿波の神様 大宜都比売」

    大宜都比売(大気都比売神、大宜津比売神、大気津比売神)は、日本神話に登場する女神。
    名前の「オオ」は「多」の意味、「ゲ」は「ケ」の食物の意味で、穀物・食物・蚕の女神である。
    『古事記』においては、「大宜都比売」は国産みにおいて伊予之二名島(四国)の中の「阿波国の名前」として初めて表れる。   

    こういう事実を示せるのは、倭国(阿波)以外には存在しない。   @阿波
  41. そもそも隋への朝貢はヤマトにとって初の朝貢なのに金印も鏡も何も持たずに行ったのが馬鹿だよな

    それらを持って邪馬台国の後任ですって言えば良かったのに
  42. 寄付のニュースのスレで、
    勝手な妄想ばかり書き込むな。
    空気よめ。邪馬台バカ老害ども。
  43. >>82
    そりゃ、無理と言うもんだ。  なんせ、スレタイに「邪馬臺国」とあればな。  諦めな!  

    もっとも、妄想ばかり書き込むのは九州説と畿内説なんだが。    @阿波
  44. >>77
    大和王朝にとっては
    外交デビューを飾るには
    邪馬台国の後継を名乗ったほうが都合が良かったのは確かだろう
  45. >>85
    >邪馬台国の後継を名乗ったほうが都合が良かったのは確かだろう

    そうなんだが、唐・新羅郡連合に負けて奈良遷都(日本国
  46. >>85
    いや、魏志で其國本亦以男子為王
    卑弥呼、壹与の邪馬台国はイレギュラー
    だから旧唐書で倭国者は正統な古倭奴国となっている。
  47. >>89
    >倭国者は

    ×者(もの)
    〇者(は)だろ?  漢文先生たちよ。   @阿波
  48. そもそもミスター吉野ケ里こと高島は職務命令で九州説を唱えただけだからな
    争ったほうが研究費が出るって理由
    https://i.imgur.com/5sDZEZ4.jpg
  49. 何でそんなに邪馬台国と卑弥呼がありがたいのか、理解不能
  50. >>100
    >鬼道がそもそも、どういうもの?

    『名曰卑彌呼事鬼道能惑衆』  『名を「卑弥呼」といい、「鬼道」に仕えて人心を惑わしている』
    大麻(麻)の繊維は、日本では古くからしめ縄、祓い具(おはらい)としての神事の大麻(おおぬさ)などに用いられてきた。
    また、麻から作った大麻(マリファナ)は薬理作用があり、紀元前から古代人が嗜好品、また医薬品として用いてきた。
    大麻(マリファナ)は喫煙、気化、飲食により成分を摂取する。
    大麻といえば、阿波忌部。 
    卑弥呼は大麻(マリファナ)を利用して「鬼道」を操ったのだろう。   @阿波
  51. >>105
    骨焼いて占いは?
  52. 宗教施設へのお布施か
  53. 大和という漢字を見ただけで
    畿内の大和は何やらオリジナルを真似ただけの二番煎じだから
    無理やりな漢字で「やまと」と読ませたのがわかるんだよな
    もともとは倭→「やまと」と読ませていたのを好字二字化令で
    上に大の文字をつけて、大倭って国名にしたんだろう?
    後になって倭の字があまり美しい意味の漢字ではなかったことを知って
    現在の大和になったんだろ
    でも元々の国名の倭は「やまと」と読める漢字じゃないんだよ

    それに比べて卑弥呼の墓とも伝えられている権現塚古墳がある
    福岡県みやま市の山門郡は、自然に「やまと」と読むことができる漢字
    やっぱりこちらがオリジナルという感じがしてならない
  54. >>106
    卑弥呼は大麻(マリファナ)を吸ってラりりながら卜骨もやっただろうて。  わははははは   @阿波
  55. >>109
    中国の古典学者も邪馬台=ヤマトと発音し山がちな場所に開けた場所を意味する日本語だと言っていたな
    ヤマトを日本人が漢字でかけば山門になるだろうと明言していた
    よく邪馬台国の正確な読みで論争になるけど読みは「ヤマト」で間違いないんじゃないかと思う
  56. >>75
    >>76
    魏志倭人伝に既に、九州邪馬台と、大和と改字する前の
    奈良の大倭が、同時に登場してるよw よく読むんだ!

    漢の時代、奴国が朝貢していたが、魏誌で分かるのは、
    奴国は邪馬台の配下のクニでしか無かったこと。つまり、
    漢代の列島覇権国は、奴国の裏に居た邪馬台だった訳。

    その邪馬台、倭國大乱で敗れ、覇権放棄の証として女王
    (=剣を持たぬ王・祀るだけの王)卑彌呼を即位させてる。
    それが証拠に、卑弥呼の死後、覇権復興を掛け男王が立つも、
    また戦となり破れ、倭国大乱の和約の通り、女王に戻した。

    新覇権国は、魏に正体を隠し邪馬台の港を押さえてる「大倭」。
    漢の時代に邪馬台がしたように、今度は大倭が、軍門に下した
    邪馬台を魏に朝貢に出した訳だ。
    倭国大乱(2世紀後半)で、邪馬台は権力無き権威に落ち、
    列島の覇権は大倭(奈良)に移ったわけだ。

    4世紀に入ると華北崩壊で東亞の朝貢秩序が完全に消失した。
    その隙に、大倭が邪馬台を滅ぼしその権威を奪ったのは、自明だ。
  57. >>115
    大倭ってのは港の管理してる人だが。
    漢文読めないの?

    > 伊都国の「魏志」の記述は
    {東南陸行五百里にして、伊都国に至る。
    官はニキといい、副はセモコ、ヘココと云う。
    千余戸あり世よ王ありて、みな女王国を統属する。
    郡使(中国からの使節)が往来するに常に留まる処である。
    租賦を納める邸閣があり国々に市がある。
    交易の有無は大倭をして、これを監させる。
    女王国より北は、とくに一大卒を置き、諸国を検察させる。諸国はこれを畏憚(おそれはばかる)する。常に伊都国に治している}

    交易の有無を大倭(国の長官ニキと副官セモコ・ヘココ)が監する。
    とのことで「交易(商売・生活・耕作)での正しい律令を定めて、これを執行する」と思います。
    また{一大卒・・・・}は、中国の出先機関の帯方郡の役人が一人送り込まれていて、国々の日常を検察する。
    この役人を諸国の人々は恐れている。
    常に、伊都国に常駐して警察・検察権を執行している。
    (大倭より大卒の方が権力を持ち人々が恐れる存在だったと解釈します)
  58. 九州に邪馬台国があったのなら吉野ヶ里より大型の遺跡がないとおかしい
  59. >>113
    山門だね
    山と山の間・・・現筑紫野市
    そこが邪馬台国の入り口だ
    佐賀含み筑後川流域など平野部全体が邪馬台国

    当時だと有明海沿岸と言った方が早いかもな
  60. >>115
    支配などないよ。相互協力だよ。
  61. >>118
    吉野ヶ里のような集落が平野部に沢山あった
    と言われており、その一片と見られる小さな痕跡は確認されている

    邪馬台国は一つの集落の名前ではなく
    半島で言う辰韓、馬韓、弁韓みたいなものだよ
  62. >>123
    >邪馬台国は一つの集落の名前ではなく

    その通り!  

    「邪馬臺国(粟国)」は、真っすぐ東西に80kmをも貫く「大河吉野川」流域に広がる弥生後期集落遺跡群。

    ちなみに、「狗奴国(長国)」は、「辰砂鉱山」と「温暖で豊かな海」に恵まれた県南部の阿南市周辺弥生後期集落遺跡群。   @阿波
  63. 纏向を都として、中国地方〜関東一体を
    支配していた崇神纏向王朝も、
    その四道将軍という軍事力をもってしても、
    北部九州に進出することが出来なかった事が、
    記紀や外来土器の産出状況から確定する事ができる。
    そして魏志倭人伝からも、
    あくまで彌馬升は邪馬台国から、
    副長官の地位を与えられる立場で
    あったことがわかるのである。
    そして熊襲に対峙する戦力を、
    本州制圧に向けたところ、
    あっという間に四道将軍の派遣した範囲を、
    制圧し直してしまったという記紀の記述をもって、
    北部九州に倭国最大の軍事力を持つ
    国があった事が分かるのである。
  64. >>123
    三韓国はきちんと勢力圏ある別の国
    まず言葉が違う

    古代朝鮮の半島南部に住んだ韓族の総称。
    3世紀中ごろには、馬韓(ばかん)(50余国)、辰(しん)韓(12国)、弁辰(べんしん)(12国、弁韓ともいう)に分かれ、それぞれが小国の連合体をなしていた。
    4世紀に入り、朝鮮北部の楽浪(らくろう)、帯方(たいほう)郡の滅亡を契機に、三韓諸国は統合に向かい、
    馬韓の地は伯済(はくさい)国を中核に百済(くだら)を建て、
    辰韓は斯盧(しろ)国によって統合され新羅(しらぎ)となった。しかし弁辰の地は加羅(から)諸国とよばれ、小国の分立状態が続いた。なお「三韓」は後世、朝鮮の代名詞としても用いられた。
    [李 成 市]

    >『後漢書』辰韓伝、『三国志』魏書辰韓伝によると、秦の始皇帝の労役から逃亡してきた秦の遺民がおり、
    馬韓人はその東の地を割いて、彼らに与え住まわせたという。
    また、『三国志』魏書弁辰伝によると、馬韓人と辰韓人は言語が異なっていたという。
  65. >>117
    ちょっと訳文とか間違ってるし、解釈はメチャクチャw
    大倭は、伊都国じゃないよw
    そして、大倭が徴税・国々の市、交易を監理しているわけ。
    その大倭の行いで特記すべきことをその次に書いてて、
    「一大率」(大倭が伊都国に置いた代官だな)による監理の
    やり方が書かれてる。その一大率を皆が畏れている。
    ちゃんと文脈を読まないとw

    魏の出先の帯方郡の遣いが来た時の対応を書いてるが、
    あっちの役人が常駐している訳では無く、やって来たら常に
    伊都国に泊まると書いてるだけw
    常に伊都国に常駐しているのは、一大率(=大倭の代官)だ。
    あんた、読み方が滅茶苦茶だよw

    結局、大倭は何処の誰だか不明のまま。(正体を隠してるから当然w)
  66. 筑紫の王は阿毎氏ですね。
  67. >>133
    「あ」がつく名称は、「天照大神」・「粟」の「あ」に由来している。   
    「い」がつく名称は、「伊予之二名島」の「い」に由来している。   
    記紀は「あ」か「い」で始まる名称が非常に多い。 
    これは、記紀が倭国(阿波)での出来事を記載している証左である。   @阿波
  68. >>133
    当時の倭王がどこに住んでたんだろうね
  69. >>137
    卑弥呼、壹与は近畿にある邪馬大国
    から北部九州に定住だな。
    で卑弥呼が亡くなった後伊都国王がたつも
    おさまらず、壹与と阿毎氏コンビ体制
    結局、伊都国王は、出雲へ。
    壹与と並び王となった人物が筑紫国を建国
  70. >>141
    それはbyの説ではないな
  71. >>144
    byの説かと思ったんだけど
    違ったっけ?
  72. >>146
    違うよ。
  73. >>78
    阿波に大量の特殊器台がいつ発見されたんだ?
    阿波は中心勢力ではない
    つうか、人の纏まった数勢力が当時の阿波にあったかも怪しいわ
  74. >>149
    >阿波に大量の特殊器台がいつ発見されたんだ?

    円筒埴輪が
  75. https://translate.google.co.jp/?hl=ja&;sl=hu&tl=ja&text=Az%20ipafai%20papnak%20fapip%C3%A1ja%20van%2C%20ez%C3%A9rt%20az%20ipafai%20papi%20pipa%20papi%20fapipa.%0A&op=translate
    イパファの僧侶は木のパイプを持っているので、イパファの僧侶は木のパイプを持っています。
  76. >>162
    邪馬台国が存続していた 3 世紀 大和の王墓である大和ホケノ山古墳の「石囲い木棺」や石棺の石囲いの特
    異な多重構造の埋葬施設は阿波や播磨の王墓の古墳と共通性があり、同時代の王墓に中国鏡を副葬するのも
    東部瀬戸内に集中分布。大和と吉播磨・阿波との密接な関係がうかがえ、大和王権を象徴する前方後円墳の
    主要構造のうち、墳丘上に樹立される埴輪は吉備の特殊器台や特殊壷に起源を持つ。また、前方後円墳の中
    核部である長大な竪穴式石室は阿波で発達したもの 墳丘を覆う葺き石は東瀬戸内の積石塚と関係すると
    いわれる。 また、徳島の結晶片岩と呼ばれる薄青色の石が初期の墳墓の石郭に使われた例がかなりあるこ
    となど、この地域の土器ばかりでなく、王墓築造の技術にも大きくかかわり、初期大和王権に東瀬戸内の諸
    国・阿波が大きな役割を演じてきたことがわかる。
    ふたかみ邪馬台国シンポジュウム 6 『邪馬台国時代の阿波・讃岐・播磨と大和』」
    東部瀬戸内とヤマトより   @阿波
  77. え〜一族の成り立ちとかでなくて、扱う素材の差なの?
    それはあんまり面白くないなあ・・・。
  78. >>163
    何故、初期ヤマト王権が吉備を中心とした連合政権であるという学会での共通認識に到ったかというと、特殊器台をはじめ祭祀関わる部分が楯築遺跡等の形態を受け継ぎ、その発展系として前方後円墳ができたろ考えられてるからだろ
    中心勢力が阿波とするには弱いんだよ
  79. >>177
    >中心勢力が阿波とするには弱いんだよ

    「阿波」がいる限り、いくら連呼しても無駄。   @阿波
  80. 新撰姓氏録を見ると
    どこ系が多いか?
    中学生でもよく分りそうだが。
  81. 反省してない!とか言われそうだけどw
    なんか似てるんだよね。
    あくまでも、歴史として。
  82. 地図見ると福岡ってめっちゃアジアに近いんだね
    福岡から稚内行くより内モンゴル自治区行く方が近い
  83. 西暦239年、魏に使いを送ったのは、どこの勢力だと思いますか?
    https://i.imgur.com/BbxsgG7.png
  84. 互いに相手の土器が出てくることがあることにはあるが少ない
    これは吉備なんかの瀬戸内海の国が30ヶ国連合に入っていて
    中継貿易の役割をしていて積荷を入れる容器の中身が
    吉備で入れ替えられていたことと
    纏向から九州へ贈り物がほぼなかったとか
    九州北部が女王の直轄地で他国と違って贈り物をささげる必要がないとか
    九州は竹の篭が出土してるけど編む技術があって
    重い土器ではなく軽いカゴを使ったとか理由はいろいろ考えられる
  85. 纏向と九州北部で相手の土器が少ししか出ないから
    交流がなかったという主張はすごく幼稚だと思うんだよ

    現代人ならわかるはずなんだけどインチョン、ドバイ、アテネに
    ハブ空港ってあるよね?
    直結していなくても物流は成立する
  86. 神武天皇が纒向に都を置いたとの記述がある
    神武天皇が実在した可能性は低いが
    この記録は纒向遺跡が大和朝廷の最初期の拠点だった根拠にはなるだろう
  87. 巻向を200回近く掘って畿内説は無理だとわかった。
    なのでそれ以降は地元考古学として
    再編されたのが桜井市纏向学研究センター。

    だいたい2011年あたりを境に
    畿内説の論文や文献は出なくなった。
  88. >>219
    それだけ掘っても全体の5%とかにしかならないのが纏向の広大さ。
  89. 阿波説は、忌部一族の再評価や、前方後円墳の起源説など、学術的に理性的な見解と、
    いや〜いくらなんでもそりゃないよっていうトンでもが入り混じっているからね。
    玉石混交な状態なのだが、石が多く混じっているうちは説得力に欠けるよ。
  90. 邪馬台国の特徴を魏志からわかるのか?
    水行しかないのに?
  91. >>227
    >いや〜いくらなんでもそりゃないよっていうトンでもが入り混じっているからね。

    「いや〜いくらなんでもそりゃないよっていうトンでも」ってなんだ? 今後の再考のため。   @阿波
  92. 近畿地方に邪馬台国があった訳がない

    古代人は知識はないが馬鹿じゃない
    なんで近畿地方に行くのに佐賀に上陸して陸路で近畿まで行くんだよ
    馬鹿としか考えられない
    途中、別のクニの軍隊や盗賊だっているんだぜ?

    邪馬台国が近畿地方にあったら、大陸から九州まで来れる技術があるから、そのまま沿岸づたいに日本海を北上して近畿地方で上陸するわ
  93. >>219
    1974年から40年ほど発掘に携わった関川尚功氏も考古学者の立場から纏向が邪馬台国というのは有り得ないだろうという本を出発したね
    規模だけは申し分ない大遺跡だけど中国との関連が深いと思われる遺物が皆無のようだ
  94. >>231
    そういう観点からも邪馬台国が畿内であったとは考えにくいな
    縄文時代から日本海航路は発展していたし朝鮮半島からの物資も日本海経由で日本に入ってきている
    畿内に行くにあたり北九州に上陸して陸路はとらないだろう
  95. 三角縁神獣鏡も魏志倭人伝なんてのがなければこの時代はすでにこの程度のものが製造できる技術が存在したとなるのに、畿内説願望派のせいで無茶苦茶
  96. 纏向遺跡の外来系土器の主体は東海山陰吉備
    同時代の福岡の遺跡からは楽浪郡以外にも東海と吉備の土器が多数見つかっている

    東海と吉備を結びつけたのは阿波かもな
    むしろ阿波が倭国大乱を仕切っていた可能性もある
    奈良は元々木棺墓&方形周溝墓の地だった
    2世紀末〜円形周溝墓が奈良に現れ墓制が変わる
    その後の前方後円墳

    宮崎の生馬古墳群も円形周溝墓の登場→前方後円墳の流れがある

    太平洋側の航海ルートを阿波が握り東海と吉備を結びつけ九州まで支配下に置いたのかもな

    阿波は倭国大乱の元凶かもしれない
  97. >>247
    三角縁神獣鏡は半肉彫りといって
    その頃の倭にはなかった高度な職人芸が使われてるよ
    国内では作れなくて
    のちに魏と交流がなくなった時には品不足が起こって
    三角縁神獣鏡を粘土で鋳型をとってコピーしたものが見つかるようになる
  98. >>195
    ググったら面白いのな。近畿(大和、丹生、水井)産ではなく、
    どこだかわからないってことは、多分未発見の鉱山があるんじゃね?
  99. >>248
    >阿波は倭国大乱の元凶かもしれない

    おいおい、そりゃ誇大妄想というもんだ。
    そもそも、倭国大乱じゃないからw
    倭国乱は、あくまで「阿波」国内での動乱なのである。   @阿波
  100. >>252
    えらくスケールが小さくなったなwww
  101. >>252
    そうやって勝手に矮小化するのも君の悪い癖だぞw
  102. >>250
    >どこだかわからないってことは、多分未発見の鉱山があるんじゃね?

    仮にそうだとしたら、吉備は畿内に影響していたどころか、
    「どこだかわからない」ところに影響されていたってことになるが、それでいいのか?  わははははは   @阿波
  103. >>249
    >>31の説をどう思う?
    纏向を長年掘ってきた当人の分析だけど
  104. >>257
    古代の物流を軽く見すぎ、必要なものなら、遠くからでも入手する。
    原料が出る場所が、中心地かどうかは別の問題。
  105. >>254
    >えらくスケールが小さくなったなwww

    当時としては、大変な動乱時代さ。  現代感覚で考えるから、「針小棒大」に陥る。 当時の社会情勢を冷静に見ろ。   @阿波
  106. 鉄や銅だって、日本になければはるばる外国から運んできてるぞ、
    もっと昔、縄文時代には黒曜石はかなりの広範囲に流通している。

    素材として必要なら、資源は遠くへも運ばれるんだよ、朱も同様。
  107. >>269
    >素材として必要なら、資源は遠くへも運ばれるんだよ、朱も同様。

    だから、吉備の特殊器台もおなじこと。  吉備は単なる供給地であり、中心地ではないってこと。  はい、お仕舞い。   @阿波
  108. 畿内ヤマトが邪馬台国でそのまま大和朝廷になってるなら
    親魏倭王金印が出てきそうなもんだが
  109. >>278
    間違ってるから出て来ないんだろw
    現実を受け入れろw
  110. >>278
    だよなw
    九州説なら
    邪馬台国はその後に畿内の大和朝廷に滅ぼされたことになるから
    金印が紛失したのは理解できるけれど
    万世一系の天皇が邪馬台国から続いているのなら
    なぜ親魏倭王の金印が無いんだ?って疑問が起きるよな
  111. 僕の推測では当時官庁的な仕事を担当してたのは在大和出雲大使館みたいな所かな。
  112. それまでバラバラだったのにいきなり纏まって大和朝廷が出来上がるてのは考え難いんだよな
  113. >>290
    卑弥呼を共立して治めたんだよ
  114. >>293
    そうかも知れないと思うけど魏志倭人伝は九州の事を指してるよ
    あれを畿内だと言うからおかしくなる
  115. 記述は九州でも邪馬台と大和は無関係では無いって事だよ
  116. 寺沢は、ここは「日本最初の霞が関」とボケたことを言っているが
    仮に纏向が邪馬台国の首都だったとしても日本全土を支配していた
    訳では無いので霞ヶ関とは言いすぎも良いところ。大和朝廷の
    出来た頃は北部九州〜名古屋程度までの範囲しか支配は出来ていない
    古代の霞ヶ関になるのは奈良時代になってからだから奈良が霞ヶ関に相当する。
  117. 邪馬台国の主要な謎は全て無くなったと言っていい。
    考古学は次のステージに
    弥生後期〜古墳時代前期の研究の段階を
    進めなければいけない時代になった事を自覚すべきだろう。
    丹波氏がどの様にして高良山一体を支配するに至ったか。
    ソレがどの様にしてに丹後へと進出して行ったか。
    狭穂彦の乱の痕跡はどこにあるのか、
    生目氏がどのように日向に進出し、
    勢力を張って、宇佐へと進出して行ったか、
    邪馬台国と互角に張り合った狗奴国熊襲の勢力とは如何なるものか等、
    記紀に入り込んだより詳細な検討へと移っていかなければいけない。
  118. https://translate.google.co.jp/?hl=ja&;sl=hu&tl=ja&text=Jamaika%20a%20jamaikaiak%C3%A9!&op=translate
    ジャマイカはジャマイカの人々のものです!
    まんま、土佐弁みたいwwwww
    @高知
  119. 熊本県民が頑張って狗奴国の痕跡を掘り当てれば決着がつく
  120. >>307
    その通り!   @阿波
  121. >>295
    魏志w陣電によれば
    九州は通り過ぎてるんだけど
  122. >>310
    >熊本県民が頑張って狗奴国の痕跡を掘り当てれば決着がつく

    「狗奴国」は邪馬台国に勝るとも劣らない超強大国。 その国力の源泉が、「辰砂鉱山」と「温暖な海の恵み」と「海洋航行技術」。   
    これらが無い熊本に、超強大国「狗奴国」など勃興するわけがない。  何を考えているんだかwww   @阿波
  123. >>313
    通り過ぎてないよ
    東夷全体が馬鹿でかいサイズで
    九州もおなじように大きいだけだよ
  124. 九州からすごい遺物が出ても考古学会に握りつぶされそう
  125. >>314
    水銀朱は別府から持ってこれる
  126. >>317
    >水銀朱は別府から持ってこれる

    そんな国力の源泉がない熊本に、超強大国「狗奴国」など勃興するわけがない。  何を考えているんだかwww   @阿波
  127. 考古学会が素人を舐めてる結果、
    邪馬台国は謎だらけで、
    どこにあったか分からない〜
    とか言って、予算を分捕るネタにしているだけで、
    実際には纏向は吉備の豪族の
    御馬城の王都で、御馬城は副長官の彌馬升だから、
    邪馬台国ではないなと言うことは、
    早い段階で分かっている事だろう。
    考古学会も、騙される素人がいるから、
    纏向は邪馬台国の候補地とか嘯いてる訳で、
    我々素人が考古学会の戦略を見抜いて、
    イヤイヤ、もうわかってんでしょと言い切る事で、
    考古学会の戦略に乗らないようにする事が大事だな。
    その上で、纏向には崇神朝の王都としての発掘の予算を、
    九州には邪馬台国や投馬国や狗奴国の発掘の予算をつけられるように、
    新しい法律を作らなければいけないだろう。
  128. ハァ?
    なんで阿波ごとき弱小国が熊本や東海を下に見てるんだ?
  129. >>322
    こら!  やるのか? 相手してやるぞ。   @阿波
  130. >>324
    尾張一宮、熱田神宮、明神大社、官幣大社
    肥後一宮、阿蘇神社、明神大社、官幣大社

    阿波にはこんな社格の神社ない。
    つまり雑魚。
  131. >>315
    九州に上陸後は
    末羅国(松浦)
    伊都国(糸島)
    奴国(那の津=博多)
    不彌国(宇美町?)と魏志倭人伝にルートが書かれてるよ

    そして九州北部の端にある不彌国の次は
    水行を20日して南にある投馬国に向かうとある
    邪馬台国に向かうには
    九州を通り過ぎてまた船出すると書いてるのは明らか
  132. >>330
    >阿波にはこんな社格の神社ない。

    アホは消えろ!   @阿波
  133. 九州説の根拠ってなーに?
    魏志倭人伝ではないことは知ってるけど
  134. >>333
    水行でしょ?渡海じゃないから九州から出ていない

    それに里数から日数に切り替わってるところは
    別の資料からコピペしてきて挿入した文章で
    行程をつなげて検討するのは間違いだと思う
  135. >>335
    どうしたんだ畿内説の低脳工作員
    気合が足りないぞw
  136. >>333
    水行の距離を勝手に決めるなよ
    末羅国から2千里が上限
  137. >>337
    一旦九州に上陸した後に水行とあるから
    どう見ても九州は通り過ぎてるだろ
    邪馬台国が九州内なら陸路で行けばいいわけだからな

    魏志倭人伝に書いてある九州の国々は邪馬台国ではなくて
    伊都国や奴国とある

    そして日数が別資料というなら
    日数で書かれてる国々は投馬国と邪馬台国になるので
    その資料では九州北部の国々は一切触れられてないという事になるんだが

    >>341
    二千里は660kmだから不彌国から南に向かうなら
    九州北部にはならないよ
  138. >>342
    2千里は全体の距離の1/6
  139. >>342
    九州からでるときは渡海してしまうので
    「女王国東渡海千余里 復有国皆倭種」
    ときちんと書かれてるよ
  140. 魏志倭人伝における住人の風俗は南方系なわけでしょ
    服装もそうだし
    入れ墨の慣習もそうだし
    邪馬台国本体が畿内にあったとしても九州まで勢力範囲を広げていて
    魏志倭人伝では九州在住の邪馬台国の住人の風俗を記録したとしか思えんが
    少なくとも畿内の住人の風俗じゃない
  141. >>337
    そのコピペ云々の話を詳しく
  142. >>345
    それは女王国が九州と書いてる事にはならないね
    畿内に女王国があっても東に倭種の国はある

    >>347
    魏では邪馬台国をかなり南の帯方より南1万2千里で
    沖縄や台湾あたりにあると思ってたからな
  143. 畿内と九州の交流の物証はあるよ

    鞴羽口の形状をわざわざかまぼこ型にする必要性ってないよね
    でも福岡市春日市、纏向の両方からでてる
    あと銅鏡

    それにホケノ山の2009年の中央部の発掘で布留0式土器と3点と
    鉄の矢じり60個 鉄のナイフ10個 大刀 画紋帯同向式神獣鏡 内行花文鏡片
    がでており布留0式なので3世紀半ばだと思われるし
    九州の鏡の内行花文鏡の破片がある

    畿内で鉄や銅鏡がほぼないけど3世紀になって突然畿内で現れる
  144. >>348
    会稽東治は会稽郡東冶県のことで
    今だと福建省福州市のあたりにあった
    東の海の向こうに台湾
    https://three-kingdoms.net/wp-content/uploads/2020/11/201110_2.png

    >>351
    何で?

    >>352
    奈良の東には伊勢湾があるのは常識だよ
    その向こうも当然倭人も住んでいた
    もしかして日本の地理に詳しくない外国人が書き込んでるのかな
  145. >>355
    伊勢湾周辺は纏向の中心勢力
    ヤマト奈良説をとるなら女王国の勢力範囲だな
    また倭種の国があるんじゃなくて、女王国の国々があるはずだが
  146. 日本の地理や歴史に詳しくない
    外国人が書き込んでる疑いが強い九州説
  147. 卑弥呼と九州の豪族たちが2世紀末に畿内に引っ越して来て
    卑弥呼が共立の王として滋賀県の伊勢遺跡に住んで
    135cmの銅鐸で儀式をしていたけどやめて
    纏向に移動して九州の同じ銅鏡で儀式をはじめたとすると
    遺構的にも説明がつく

    伊都国の2世紀後半の平原1号墳に眠るピアスをしたおそらく女性の被葬者は
    卑弥呼の祖母かおばか姉である可能性がある
  148. >>358
    海なんか超えずに湾伝いに陸路で行くよね
  149. >>354
    ホケノ山は庄内3だよ
    ホケノ山から布留0式土器が出たと九州説論者が言い張ってるが信じてはダメ
  150. 九州説の作戦はこうだ

    自分でもよく理解してないやたらめったら複雑な事を言って
    周囲をケムに巻いて周りが混乱した所で自分の都合のいいように歴史を創作
    これはカルト宗教が洗脳に使うテクニック
  151. 伊勢湾って対岸見えるし中国人からすりゃ川だな
  152. 九州説は朝鮮系カルトの疑いが強いねえ
  153. 畿内説だと、博多湾→投馬国→邪馬台国という長距離行程において、
    途中全く国が存在していないという事になるな

    魏志倭人伝で紹介されてる20国のうち一つも出て来ないというのは物理的におかしいよな
  154. >>1
    纒向は違うだろ。
    邪馬台国とは別物な。
  155. >>374
    どうした?
    罵声上げて現実逃避かよ?w
  156. >>376 ならないよ

    自女王國以北 其戸數道里可得略載 其餘旁國遠絶 不可得詳
    次有斯馬國 次有巳百支國 次有伊邪國 次有都支國 次有彌奴國
    次有好古都國 次有不呼國 次有姐奴國 次有對蘇國 次有蘇奴國
    次有呼邑國 次有華奴蘇奴國 次有鬼國 次有為吾國 次有鬼奴國
    次有邪馬國 次有躬臣國 次有巴利國 次有支惟國 次有烏奴國
    次有奴國 此女王境界所盡

    次にシバ国が有る。次にシハクシ国がある。次にイヤ国がある。次にトシ国がある。次にミド国がある。
    次にカウコト国がある。次にフウコ国がある。次にシャド国がある。次にタイソ国がある。次にソド国がある。
    次にコイフ国がある。次にカドソド国がある。次にキ国がある。次にヰゴ国がある。次にキド国がある。
    次にヤバ国がある。次にキュウシン国がある。次にハリ国がある。次にシユイ国がある。次にヲド国がある。
    次にド国がある。

    中国四国近畿にこれらの国があった可能性がある
  157. >>356
    なんや、いろいろ言うてるわりにはあんまり知ってないんやな。
    水銀鉱床あれば丹が出ても何ら不思議ないと思うけど、下のPFDで熊本県探してみて。
    https://www.gsj.jp/data/rep-gsj/No154.pdf
  158. >>387
    @阿波氏は自説に都合の悪い事実はいつも完全無視するからw
    分かりやすいちゃあ、わかりやすい。
  159. ホケノ山で箟被のついた銅鏃出土

    石野氏はホケノ山古墳から箟被(のかつぎ)のついた銅鏃が出土したことも述べている。
    このタイプの銅鏃は比較的新しい時代の物で、前期古墳の後半で布留�T式以降と考えられている。
  160. >>379
    たぶん、あれやろ。
    ヒカルの碁でサイの対局相手が碁笥に混ざってた色違いの石を
    揚浜に移すのが見つかって取った行動の時の心境なんじゃね?
  161. >>395
    余計に分かりにくいんだけどw
  162. ☀お昼は、🥓焼肉焼き焼きやき!😋
    @土佐
  163. 邪馬台国は大和国の事と
    隋書には書いている
  164. >>401
    それ魏の時代じゃないし
    纒向遺跡は4世紀半ばで消滅してるけど?
  165. >>295
    さしていない。
    魏志のみでは沖縄あたりだな。
    実際になくてもいい
    陳寿の認識だからな
  166. イヤーしかし、張政が卑弥呼に贈った黄色い軍旗、黄幢が、
    あの博多祇園山笠の大幡主の命の黄色い旗だったとはな。
    邪馬台国は北部九州では現代にも残っているのである。
    ソレが日本の歴史なのである。
  167. >>392
    >@阿波氏は自説に都合の悪い事実はいつも完全無視するからw

    都合の悪い事実ってなんや?  言うてみんかい。   @阿波
  168. >>404
    魏志倭人伝には遠すぎて詳細がわからないと書いてるけど
    まあ実際は倭国には使訳通じる国が30ヵ国というのに架空の国で数合わせだろ
    倭国には使訳通じる国が30ヵ国というのは
    恐らく漢の時代に形成された伝承

    魏志倭人伝の倭国の記述は
    多くが漢の時代に作られた伝承を下敷きにしているもの
    例えば邪馬台国は帯方より南に1万2千里というのもそう
  169. >>416

    ■万葉集における「ヤマト」と読む当て字は多種有り
     『倭』   19首(1)
     『山跡』  18首
     『日本』  14首
     『夜麻登』 5首
     『八間跡』 1首(1)
     『也麻等』 1首
     『夜萬等』 1首
     『夜未等』 1首

    例)
    大倭には 群山あれど、
    とりよろふ 天の香具山。
    登り立ち 国見をすれば、
    国原は 煙立ち立つ。
    海原は 鴎(カモメ)立ち立つ。
    可怜し国ぞ。
    あきづしま大倭の国は。

    カモメが飛んでたならヤマトが奈良じゃない事は確実だな
  170. >>418
    だから空想はいらねえって

    畿内説だと記録と合わないという自覚を持てという話だ
  171. >>418
    >倭国には使訳通じる国が30ヵ国というのは

    その30カ国は、大河吉野川流域の国々だ。  文句あるか?  @阿波
  172. 魏志倭人伝を読み解けない人は低能

    ■魏志倭人伝を読む上での注意事項
    ・中国既存の記録に倭人からの情報など最新情報を追加した文書構成である
    ・卑弥呼時代に朝貢が再開されるまで、中国は投馬国や邪馬台国という国名は知らなかった
    ・水行○○日の行程は、魏に朝貢した倭人からの説明を引用したものである
    ・投馬国とは、半島南部の呼び名である
    ・邪馬台国とは、対馬海峡を渡った先にある北部九州一帯の呼び名である

    水行の起点は帯方郡である
    https://i.imgur.com/X5UppCx.png

    例)朝貢に来た倭人曰く
    ・(郡を出て)南に船で20日ほど行くと投馬国に至ります。
    ・さらに投馬国から南に海を渡れば邪馬台国です。
    ・そこに女王の都があります。
    ・郡から計1か月ほどの道のりとなります。

    この記録を陳寿なりに解釈して倭人伝に記載したが、出発点や里数の表記が無く、
    位置関係がわからないので、とりあえず不彌国の後ろに追記しておいた。

    ■参考
    魏略で引用されている廣志では「邪馬臺国」の位置は伊都国の又南と記載されている。
  173. >>427
    個人的想像なんか不要です
  174. 倭人伝の読み方は日数は無視して里程と方角のみを考えれば良い、
    そうすればどんなに遠くても福岡県内〜佐賀市までの範囲になる
  175. >>433
    で日数の投馬国と邪馬台国も無視になる
    から不弥国で終わりました。
  176. 天孫降臨が九州なんだから邪馬台国も九州だと考えるのが普通
  177. >>419
    大和
    gyarmat [ɟɒrmɒt]
    コロニー

    百済
    kudarc [kudɒrts]
    失敗, ミス

    どういう事だろう……🤔??
    読めない。
    だいわ、ひゃくさいって読みたくなる。
  178. 纒向学
    これ主導してるおっさんが胡散臭いからちょっとな
    九州説を主張する人相手だと机バンバン叩いて「証拠あるんか証拠は!」
    一方で自説の曖昧な点を指摘されると「私はそう信じとるっちゅうことです、揺らぎません」
  179. >>420
    空想じゃあねえよ
    後漢書を見れば後漢で倭がどう書かれていたかがわかる
    そこには百ヵ国あるとか30ヵ国使訳通じるとかある
    そして後漢から倭の都は楽浪より南に1万2千里にあって
    倭の極南界にあるとしていた事も書いてある

    魏志倭人伝の邪馬台国の位置は漢の伝承をなぞらえて書いたもの
    漢は魏にとって先祖だから
    実際の倭が偉大な先祖の言っていた事と色々違うというのは不敬者と見なされる
    これは儒教思想によるもので
    魏志倭人伝は正確な地理書というよりは儒教思想によって書かれている
  180. >>360
    それで全部を否定するなよ
    疑いが強いのとそうじゃないのがあるだろ
  181. >>433
    魏志倭人伝には邪馬台国は会稽東治の東
    つまり沖縄や台湾になるあたりと書いていますが
  182. >>423
    吉野川流域に30の国は無理じゃね?
    郡単位だと、板野・阿波・美馬・麻植・名方の5郡しかないのに、
    そこに30国の想定?
    規模が小さすぎるよ、いくら何でも。
  183. >>435
    魏志倭人伝に卑弥呼が魏に使いをよこしたと書いてある年度の
    景初や正始などの魏の年号が入った銅鏡が畿内から見つかっているから
    邪馬台国は魏から卑弥呼がもらった銅鏡の見つかってる畿内と考えるのが普通
  184. 大吉野川のおかげで、水田はろくに作れず、畑作に頼り、山際や扇状地・河岸段丘の上になどに
    細々と耕作をしていたのが阿波北方、増えてくる人口を支えきれないから、忌部一族は他の土地へ移住したんだよ。
  185. >>446
    会稽東治が何処か分かんねえじゃん
  186. >>447
    >郡単位だと、板野・阿波・美馬・麻植・名方の5郡しかないのに

    おそらく集落単位なんだろう、当時の国は。   @阿波
  187. >>435
    天孫降臨って宮崎より鹿児島側だと思うわ
    宮崎から阿多までは遠すぎる
  188. >>448
    >>31これはどーすんの?

    ・・・三角縁神獣鏡は、その文様を組み替えることにより、多種多様な鏡がつくられた。そして、同笵鏡と呼ばれるコピーがつくられた。粗製乱造とはいえないまでも、大量生産されたものであることは確かである。・・・中国と交渉するなかで、ヤマト王権によって、『おおやまと』地域において、あらたに創出された鏡が三角縁神獣鏡である」。
  189. >>450
    阿呆玉よ。  当時の西日本一帯は、弥生大洪水のせいで、灌漑稲作はほとんど出来なかった  と何度言えばw   @阿波
  190. >>438
    くだら、新羅(しんら)、加羅(から)、耽羅(たんら=済州島)
    これらに共通の語末の「ら」は日本語。
    日本語の「むら」「俺ら」「お前ら」の「ら」です。

    くだらは、支配層が高句麗語系の百済語で、支配層が、国号に
    漢語系の百済(ヒャクサイ)を付けたもの。
    だが、民の多くが話す日本語では「くだら」と言われてたはず。

    大和は、これに少し似た話。
    地政学から、「やまと(山戸/山門)」は日田盆地に起こり、
    筑紫平野を支配し、最後、みなと(水戸/水門)=奴国(博多)
    を手に入れ鉄と朝貢を握り、列島の覇権を取った。
    漢には配下の奴国を朝貢に出していた。
    魏志倭人伝で分かるのは、この やまと(邪馬台)が倭国大乱で
    負け、覇権放棄の証として女王(=剣を持たぬ王)を立てた事。
    そして、邪馬台の博多港を押さえるのが正体不明の「大倭」だ。
    そう、この大倭こそ、後に大和に改字する奈良=新覇権国だ。
    倭國の殆どを手に入れたから、「大倭」を名乗ったのだろう。

    この大倭、4世紀にやまと(邪馬台)を滅ぼし、その権威を継ぎ、
    大倭(後に大和)と書いて「やまと」と読ませた。
  191. 奈良を強硬に主張してる人たちの根本にあるのは
    奈良=ナラ、朝鮮語で都を指す、だから邪馬台国は奈良にあった古朝鮮の属国
    九州説四国説の正しさはともかく、こんな半島がかったトンデモ説には乗れない
  192. >>462
    奈良の語源に朝鮮語を持ってきてる自分が怪しい存在だって自覚ある?
  193. >>452
    今の福建省福州市の東とわかってるよ
    沖縄や台湾のあたり

    >>455
    三角縁神獣鏡は国内で複製されたのもあるけれど
    使われてる銅を調べたら中国の銅鏡の銅と同じもので作られてる事がわかった
    漢字や魏の年号が入っていて魏の都のあった洛陽からも見つかっている事から
    中国の魏で作られたもので卑弥呼に下賜されたものと結論づけられている
  194. >>469
    洛陽から見つかった、たった一枚の銅鏡
    見つけたのは考古学者ではなくて、骨とう品屋
    奇跡的な発見なのに、なぜかその鏡の学術調査を拒否しているw
    日本で500枚発見の銅鏡がなぜか本場の中国では1枚しか発見されていない
    しかも骨董品屋がたまたま見つけて、しかも学術調査を拒否している
    それを根拠にしていると畿内説そのものの信用性が失われそうな予感がするなw
  195. >>470
    そもそも三角縁神獣鏡は斜縁神獣鏡の一種で
    斜縁神獣鏡は中国ではよく見つかる鏡

    その中で鋸歯紋と笠松紋が特徴的で特に日本で見つかるものを
    三角縁神獣鏡と分類している
    三角縁神獣鏡とは魏で作られて倭に贈られた鏡という意味合いが強いのだよ
  196. 九州の邪馬台国より強大な王朝がすでに畿内に存在してた説の方がよりロマンがあると思うけどな
    なんで強引に纒向に結び付けたがるのか理解できないな
  197. >>478
    関川氏や坂靖といった第一線で纏向の発掘に関わっていた研究者が相次いで畿内説と決別した事実は直視しないと駄目だよ
  198. >>479
    そもそも畿内説の人は
    纒向の宮を作ったのは垂仁天皇という記紀の記述を無視して
    その時代は卑弥呼に当たる女王が天皇だったという主張なんだろうか?
    それとも天皇はまだ存在していない
    記紀は嘘だという主張で纒向が邪馬台国の遺跡だと言っているんだろうか?
  199. 魏志倭人伝に邪馬台国では子供も大人もすべての男が
    顔に入れ墨を入れている、つまり鯨面文身
    大和王朝が損な風習だったと思う?
    実際に大和からは顔に入れ墨入れている土偶は出土していない
    こんな感じだったって書いているんだよ

    https://i.imgur.com/e6gwk0W.jpg

    絶対に邪馬台国は畿内じゃなかったと直感するだろ?
  200. 柔然と一緒に西へ逃げたんじゃないの?
    任那日本府の住人が。
    農民が本土に帰れる?
  201. 紀年銘鏡を書学者の立場から検討をしてみたという面白い説がある

    日本出土「魏紀年」四鏡の銘文と字体 / 福宿孝夫
    によると帯方郡で作ってた説だが、これもう魏が特注させたどころか、倭が特注させてたろw

    >以上の考察により、四銘を帯方鏡系統として総括して、
    >a鏡を3世紀前半の初版、b cd鏡を3世紀後半の改版、又は以後の再版として区分し、
    >基本的には、a鏡を魏期帯方郡製、他の三鏡を西晋期帯方郡製と推断したのである。

    >なお、帯方郡の滅亡時期にねらいをつけて、補助的な推定も加味し、
    >帯方系工人の渡来による倭製をも範囲に入れて置くことにする。

    >結局、倭の女王に魏や西晋から下賜された鏡は、帯方太守に委嘱の分で、
    >魏期の陳是と西晋期の門下生に依託した特鋳鏡を含むと推測できる。


    またこの人は銘文の「至東海」とは職人が帯方郡に赴任したことだという考えのようだ
    さらに「景初四年」については次のように述べている

    >都から遠隔の帯方郡工房の任地に居て、改元の情報を知らずに
    >当年月に製したとするのが良いであろう。
    >卑弥呼への鏡は、帯方太守弓遵に代理を委嘱し、
    >主として、陳是による帯方郡特製鏡を、使者を通じて下賜したものと推測する。

    まあ特注なのに帯方郡が改元を知らなかったというのもどうかと思うがw
    最後にこう述べて締めくくられる

    >以上、日本出土の代表的「魏紀年」四鏡の銘文・用字体について、
    >帯方郡に縁がある銅鏡として推定し、韓半島帯方郡における魏・西晋期の特製
    >ないしは改版によるボウ製鏡という仮説を立てたわけである。
    >もし、b cd 三鏡が倭製であるとしても、やはり、帯方工房「陳是」一門の複製品として扱いたい。
    >この新説は、鏡式や古墳を対象にした研究成果ではなく、
    >用字体の考察と銘文の解釈との総合による推論であるので、
    >権威ある考古学者の意に副わない点も多々あろう
  202. 魏志倭人伝を無視した九州説って根拠はなーに?
    誰か答えてよ
  203. >>482
    墓なら畿内の前方後円墳の方がずっと卑弥呼の墓に合う
    魏志倭人伝には卑弥呼の墓は径百歩つまり直径140mとあって
    九州にはないけど畿内にはこのサイズの前方後円墳がいくつかある

    >>495
    帯方郡は卑弥呼の頃は魏の領地だったから
    卑弥呼の時代に帯方で作られた鏡というなら魏鏡だよ
    そして景初四年は当時の資料などに
    存在していた事を伺わせる記述がいくつもある
  204. >>501
    銅出徐州とかどう言い訳するんだろう?
    原料を帯方郡まで運んで作らせてるなら
    使訳を通じてる倭の国々が同じことやってても不思議はないが

    >そして景初四年は当時の資料などに存在していた事を伺わせる記述がいくつもある
    ソースください
  205. >>500
    魏志倭人伝を無視しているのは
    畿内説の方だろ?知恵遅れ
  206. 遺跡や古墳は発見されてなかったり潰されてるおそれがあるからそれを根拠にするのは違う
    ただ遺物はその地域の文化を知るうえで参考になる
  207. >>474
    そう。
    漢への朝貢を握り、半島倭人と交易の独占で列島に君臨した
    九州やまと(邪馬台)、その覇権を切り崩すべく、
    出雲は、神話因幡の白兎(※)にある通り、新羅人と通じて台頭、
    一方、奈良は、百済人と通じて台頭していく。
    最後、この三雄が三つ巴の戦い=倭国大乱(2世紀後半)を戦い、
    奈良が勝利、大倭を名乗る(←実は、魏志に登場している!)
    おそらく出雲はこの大乱で滅び、邪馬台は万事休すとなり、
    覇権放棄で和議。その証に、女王=剣を持たぬ王・祀るだけの王
    =卑彌呼を即位させた。

    ⸻⸻⸻
    ※ 「因幡の白兎」
    しら兎=新羅(シッラ)人
    ワニ=倭人(ワニン)、つまり邪馬台〜半島南部の島伝いの交易
     ルートを握る倭人たち(出雲とアイデンティティーが違う。)

    出雲は九州邪馬台から見て出雲の裏手の因幡に新羅人を囲い、
    邪馬台ら倭人の管理する交易ルート(一列のワニ)上で密貿易
    させ、これで鉄や築城技術を入手し台頭していく。
    時々ワニにバレて、しら兎は身包み剥がされ出雲に逃げた。
  208. >>509
    その出雲は、「阿波」の沿岸地帯のこと。 島根じゃね〜ぞ。   @阿波
  209. 元狗奴国 【大国主神を祀る、全国唯一の式内社「八鉾神社」】
    「神社由緒」

    一、八桙神社は上古長ノ国造の祖神として竹原庄要津に鎮座す。長ノ国は北方粟ノ国と相対して阿波民族の源を形成す。

    一、承平4年朱雀天皇の御宇歌聖紀貫之土佐守の任満ちて上洛の途上南海水道にさしかかりし時、
    豪勢なる海賊に出逢い航行不能となる。直ちに那賀川河口に碇泊、西潟なる竹原庄の要津に松?栢城高く聳え立ち、
    威光海上を圧する八桙大明神に祈願奉幣す。

    一、長寛元年9月25日関白左大臣大将正二位藤原基実卿後白河上皇の勅命を承け、
    法華八講料として免祖水田5段と紺紙金泥法華経一部八巻合わせて5種12巻を奉納し、
    この善根に依り、後白河上皇二条帝の宝祚を寿命長遠に併せて二品家一門の神徳冥助を乞い並びに南海水道の海上安全を祈願す。   @阿波
  210. 魏志倭人伝に前方後円墳の様な奇抜な形の墓の記述が無いのは勿論だが、
    卑弥呼の死亡と同時代の墓の平原遺跡の墓も
    方墳であって前方後円墳ではないのである。
    伊都國は邪馬台国の重要都市であって、
    その巫女の墓ですら前方後円墳出ないのだから、
    卑弥呼の墓は前方後円墳でないのは明らかだろう。
  211. >>504
    徐州は魏の領土で銅の産出地
    三角縁神獣鏡には師出洛陽 銅出徐州と銘の入ったものもあって
    洛陽の鏡師が徐州の銅で作ったと彫ってある事になる
    その通り成分を分析したら魏の鏡と同じ銅が使われていて
    また三角縁神獣鏡は洛陽でも見つかっている
    三角縁神獣鏡は銘文の通りに徐州の銅で洛陽の鏡師が作ったものに疑いはないのではないか
    という可能性が指摘されている

    景初四年が使われていた痕跡は
    晋書天文誌や魏志の中の
    正始元年春二月乙丑、加侍中中書監劉放…
    といった記述に見られる
  212. >>515
    >三角縁神獣鏡には銅出徐州 師出洛陽
    >魏の領地の徐州の銅で洛陽の鏡師が作ったと書いている


    作ったのは、倭国(阿波)の地。  少なくとも、洛陽で作ったとは書いていない!    

    「師出洛陽」だから、洛陽出身の鏡師が倭国(阿波)で作った「三角縁神獣鏡」 。   @阿波
  213. >>517
    >「師出洛陽」だから、洛陽出身の鏡師が倭国(阿波)で作った「三角縁神獣鏡」 。

    その「三角縁神獣鏡」のお手本としたのが、

    魏の水銀朱が使われた萩原古墳群出土の画文帯神獣鏡

    または、同じく魏の水銀朱が使われた天河別神社古墳群出土の斜縁二神二獣鏡

    この画文帯神獣鏡か斜縁二神二獣鏡 このどちらかだろうね 魏から下賜された鏡は。   @阿波

       @阿波
  214. 三角縁神獣鏡が国産だと決め付けてる人に質問
    ・畿内はどのようにして鏡の製作技術を習得したのか?
    ・100種類くらいある神獣鏡の文様はどのようにして畿内に伝わったのか?
    ・「景初」や「正始」の魏の年号はどのようにして畿内に伝わったのか?
    ・景初四年の年号を後世に彫る動機がないから景初四年鏡の製作は240年と考えていいか?
    違うと考えてるなら、景初四年鏡を後世に製作する動機は?
    ・中国出土の鏡とまったく同じ銘文がなぜ三角縁神獣鏡に彫られているのか?
    ・中国鏡と同じ成分(国産鏡とは違う成分)の材料をどのように入手したのか?
    ・景初三年の年号があること、西暦270年頃築造の黒塚古墳でも出土してることから製作開始時期は239年でいいか?

    三角縁神獣鏡が国産だと仮定すると、畿内と中国で数十年にわたる密接な交流があったとみなすべきだが
    畿内と中国の交流がなかったことにしたいなら、交流を否定する合理的な説明が必要
  215. >>481
    邪馬台国の王とは書いていない。
    邪馬台国が中心国とも書いていない。
  216. >>519
    国産だとしても畿内で作った証拠がない
  217. >>522
    同笵鏡の出土状況から配布は畿内勢力以外にありえない
    もし国産鏡だと決めつけるなら、製作場所も自動的に畿内になる
  218. 東アジアも
    西洋人だらけだった?!
  219. こんな記事もあるんだね

    「中国製」「国産」同じ鋳型か 卑弥呼の「神獣鏡」、傷ほぼ一致
    2015年11月1日 21:22日経

    ・・その結果、舶載とされるヘボソ塚古墳(神戸市)の鏡と、仿製とされる鶴山丸山古墳(岡山県備前市)などの計4枚はいずれも文様が違うのに鋳型の傷を示すしわの形や長さ、位置が、それぞれ2〜3カ所で一致したとしている。
    ・・他にも筒野古墳(三重県松阪市)などの舶載鏡と、造山1号墳(島根県安来市)の仿製鏡は同じ鋳型から作られたと確認し、さらに増える可能性がある。

    清水さんは「途中から日本で作ったとすると、鋳型をわざわざ中国から運んできたことになり可能性は低い。舶載、仿製の分類は意味がなくなった」と話している。
  220. >>528
    鋳型をわざわざ運んできた可能性は低いよ
    三角縁神獣鏡は漢字を左右反対してるところがある
    つまり、日本国内でオリジナルから鋳型を粘土で作り、
    それを複製したってこと。
    このオリジナルで文字がうまくいかないところだけ日本で作ったんだろ

    とりあえずあれは全部国産で、
    中国製の劣化コピーだと思っていい
  221. 画文帯神獣鏡も同様にして、
    卑弥呼の時代に贈られた鏡ではない事が確定した。
    画文帯神獣鏡三角縁神獣鏡の微量成分が一致する事は、
    画文帯神獣鏡と三角縁神獣鏡が共に、
    卑弥呼に贈られた鏡でない事を意味する事でしかない。
  222. 卑弥呼の邪馬台国は、
    画文帯神獣鏡と三角縁神獣鏡が、
    魏から贈られた鏡でない事を知っているので、
    それを後生大事に墓なんかに入れちゃった勢力は、
    魏から贈られた鏡が、画文帯神獣鏡や
    三角縁神獣鏡でない事を知らない勢力と言う事になる。
    畿内説は終わった、完全に終了させました。
  223. >>526
    >同笵鏡の出土状況から配布は畿内勢力以外にありえない

    同笵鏡の出土状況から畿内は配布された勢力以外にありえない。   @阿波
  224. 考えられません(キッパリ
  225. 卑弥呼が死んだ時期と箸墓古墳が作られた時期がピッタリ一致するらしい
    これってもう決定打なんじゃね?
  226. >>543
    偶然の一致もありえるけど、現実的には卑弥呼の墓の可能性大
  227. >>544
    だよな
    現実的に考えたら邪馬台国は大和しかありえない
  228. 讃岐忌部は?
    @うどん🍜😋
  229. 箸墓は初期の前方後円墳としては大きな墓だから、
    その前に作られたより小型のより初期の前方後円墳も数多くある。
    卑弥呼は長い間女王であったから、
    その間に作られた前方後円墳は、
    女王以外の地位の人間の前方後円墳が数多く有るわけで、
    女王以外の地位の人間の前方後円墳の中に、
    邪馬台国の重要拠点たる伊都國の
    卑弥呼の死亡時期と同時代に作られた平原遺跡の墓が、
    前方後円墳でない事を持って、
    伊都國に一大率を置いて支配していた邪馬台国は、
    前方後円墳を作る勢力ではなかった事が確定するのである。
  230. >>555
    讃岐忌部がどうかしたか?   @阿波
  231. 邪馬台国が初期の前方後円墳の築造を象徴とする政権であるにもかかわらず、
    超重要拠点として、一大率を置き、
    外交の窓口として、機能させた、
    伊都國の、卑弥呼の死亡時期と同時代に作られた、
    豪華な埋葬品が埋まっている、
    邪馬台国関連の遺跡として相応しい平原遺跡の墓が、
    前方後円墳でない理由は、
    伊都國を支配していた邪馬台国は、
    前方後円墳の築造を象徴とする
    政権ではなかったと言う事でしかない。
  232. >>565
    そう言われてみると確かにそうだな
    自説ですか?
    凄いね
  233. 畿内説は終わった。
    箸墓は発掘するまでもないだろう。
    もし発掘するのであれば、
    邪馬台国卑弥呼とは無関係な
    吉備出身の豪族吉備津彦の
    異母兄妹のモモソヒメの墓として、
    発掘して頂きたいモノだな。
  234. 畿内説に何度でも聞くが

    女王国以北は距離や戸数が分かったと書いてある
    南は狗奴国なので詳細不明な20国は女王国の東西

    畿内説だと奈良が南端だろ?
    20国はどこ?
    水行30日、陸行一月の行程上に20国のうち一国も登場しない理由は?
  235. >>571
    >どちらにしろ銅出徐州は虚偽ということになりそうな

    論理の飛躍で決め付け
  236. >>574
    徐州から原材料を運んできた説なの?
    そんなことなら使訳を通じてる倭の国が帯方郡楽浪郡あたりで職人に作らせることもできそうだな
  237. >>576
    >使訳を通じてる倭の国が帯方郡楽浪郡あたりで職人に作らせることもできそうだな

    そういう可能性もあるな
    それなら帯方郡楽浪郡あたりで職人に作らせた倭の国こそが
    帯方郡楽浪郡を通して魏と外交交渉をやっていた国であるとみなすべき
  238. 今月に発表されたことだが相当な数の民を従えた有力者が
    1〜2世紀に佐賀七ヶ瀬にいた
    久留米祇園山は盗掘されたというか石棺がむき出しで権力のほどは不明だが
    石棺や石棺に塗られた丹からかなりの権力者がいたと思われる

    2世紀の九州は伊都国の平原の銅鏡40枚の被葬者を女王として
    佐賀七ヶ瀬と久留米の有力者が九州北部を抑えていたんじゃないか

    これはのちのヤマト王権で多くの豪族が天皇を支える形式に似ていて
    九州北部の統治形態を3世紀の畿内で卑弥呼を女王として
    30カ国が支える形態を模倣発展させたんじゃないか
  239. >>581
    妄想は分けて話せw


    さっさと>>573に答えろ低能
  240. 俺の説が正しければ纏向
    邪馬台国っぽいものは北九州にあったかもしれないけど滅びてんだよ
  241. >>582 おれは知らないやつには優しく教えるよ

    七ヶ瀬遺跡から墓群 弥生後期の251基 佐賀
    https://www.yomiuri.co.jp/local/saga/news/20210709-OYTNT50094/
    佐賀市教育委員会は9日、佐賀市大和町の 七ヶ瀬しちがせ 遺跡から
    弥生時代後期の墓群が出土したと発表した。
    251基確認され、中国製の銅鏡などの副葬品も見つかった。
    市教委は、弥生時代後期の墓制を研究する上で貴重な資料とみている。

    産業用地の造成工事に伴い2019、20年度、約4000平方メートルで発掘調査を実施。
    墓群は地表面下約0・7メートルで良好な状態で残っていた。
    素焼きの土器でできた「 甕棺かめかん 墓」、石を組んだ「 石棺せっかん 墓」、
    土を掘った「 土壙どこう 墓」など多様な埋葬形態の墓が集積し、
    うち9基から、銅鏡やガラス製の玉類、刀剣なども出てきた。
    鏡は、大きいものは直径約17センチ。
    中国の前漢〜後漢(紀元前206年〜紀元後220年)に作られ、持ち込まれたという。

    調査を担当した市教委文化振興課の馬場晶平主任は「佐賀平野では、
    神埼市周辺に副葬品を伴う墓群が集中しているが、
    佐賀市から小城市では大規模なものは見つかっていなかった。
    埋葬方法や副葬品の違いからは、階層の違いもうかがえる」と意義を語る。


    https://www.yomiuri.co.jp/media/2021/07/20210709-OYTNI50025-1.jpg
    この画像で特に見て欲しいのが一番手前の素環頭大刀と
    その上にある鉄斧2個だよ
    1〜2世紀に佐賀七ヶ瀬にこの容量の鉄を入手できる有力者がいたってこと
    朝鮮半島とかなりの量の米を交換したはずなので
    かなりのj数の民衆を従えて米を納めさせてたと思われる

    佐賀七ヶ瀬は九州北部におけるナンバー2か
    ナンバー3くらいの地位にいたと思われる

    彼(大刀をふるえるので男王と個人的に考える)が卑弥呼とともに東遷した
    崇神天皇の祖先なのではないか
    神武東征の神武のモデルでもあると考える
  242. >>577
    使訳を通じてた30国はそりゃ魏と外交やってるだろw
    どこと使訳を通じてると思ってんだ

    倭のとある国が帯方郡あたりで職人に注文して鏡を作らせてる可能性はある
    卑弥呼が貰った銅鏡100枚とは無関係な鏡だが
  243. 奥山が自演してるだけって情報が入った

    情けない
  244. どう見ても北九州より畿内の方が物がでかいしな
  245. >>595
    楽浪郡や帯方郡と最も交流痕跡が多い国=楽浪郡や帯方郡を通して魏と外交をやってた国
    とみなすのが合理的であり可能性が高い
    こんなの当たり前の理屈

    ちなみにおれは、すべての三角縁神獣鏡が下賜鏡だとは思ってない
    三角縁神獣鏡はあくまで魏との交流を示す物証
  246. ヤマト王権の古代学—「おおやまと」の王から倭国の王へ / 坂靖(著)

    著者は次のように指摘します。
    「ヤマト王権は、布留式期に日本列島各地に強い影響力を行使することをはじめたのであって、初期のヤマト王権の版図は、きわめて限定されていたとみるべきである。・・・弥生時代中期から後期の近畿地方においては、中国との直接交渉を示す資料がほとんど知られていない。楽浪形土器は北部九州に集中し、松江市以東にはまったく認められない。邪馬台国の時代、すなわち庄内式期においても、魏と交渉し、西日本一帯に影響力をおよぼしたような存在が、奈良盆地にはみあたらない。邪馬台国の所在地の第一候補とされる纏向遺跡の庄内式期の遺跡の規模は貧弱であり、魏との交渉にかかわる遺物がない。・・。さらに女王卑弥呼の居所は、出入りするものは男子が一人いただけであり、そこに宮室・楼観・城柵が厳かに設けられ、常に人がいて、兵が守衛するような場所であったと記されるが、纏向遺跡にはそのような場所を認めることはできない。」
  247. >>595
    邪馬台国が九州にあったと仮定すると、以下のような非現実的で不自然極まりない状況を前提にしなければならない
    ・九州の邪馬台国と魏や楽浪郡帯方郡との交流を示す物証は何もない
    これは、九州の邪馬台国が魏や楽浪郡帯方郡から無視されていた状況を表す
    ・畿内ヤマトは楽浪郡帯方郡に三角縁神獣鏡の製作をしてもらい密接に交流していた
    ・魏は倭国と外交交渉する際、列島最大勢力であり、また楽浪郡帯方郡と密接交流していた畿内ヤマトを交渉相手に選ばず
    楽浪郡帯方郡から相手にされなかった九州の弱小国をあえて交渉相手に選んだ

    こんな状況でいまだに九州説をゴリ押しする思考回路が理解できない
  248. >>608
    邪馬台国が選ばれた理由は
    司馬懿が公孫氏を討伐したタイミングで帯方郡に朝貢にきてたからだぞw

    大国だとか小国だとかは関係ない
  249. >>612
    邪馬台国は選ばれていない。
    卑弥呼である。
  250. >>612
    >司馬懿が公孫氏を討伐したタイミングで帯方郡に朝貢にきてたからだぞw

    そんなことどこにも書かれていない
    ただの作り話
    魏志倭人伝には邪馬台国は30国連合の盟主の国であり、戸数7万戸と書かれている
    畿内ヤマトならこの記述に該当するのに、九州にこじつけたいため、何の証拠もなく魏志倭人伝の記述をデタラメと決めつけるのは不合理
  251. >>613
    おまえ邪魔
  252. アルタイ語で
    ☀太陽=кӱн
    だっけ?

    太陽=カーン=可汗=君(クン)
    なのか?
    http://www.tarbagan.net/fotj/AltaiLang.htm
  253. >>616
    >景初二年六月、倭の女王は大夫難升米を帯方郡に遣わし、
    >魏の天子に朝献したいと請求した。帯方太守夏は、役人を遣わし、これを引率して洛陽に至らしめた。

    景初二年の八月に公孫氏が司馬懿に討伐されて
    そのまま洛陽まで連れていかれた難升米さんw

    こいつらほんとは燕の公孫氏に朝貢するつもりだったんじゃねーのていう
  254. >>620
    だから何?
    邪馬台国が弱小国で、魏志倭人伝にはデタラメが書かれていると言い張る理由にはなってない
  255. >>616
    戸数7万戸は疑わしいと思ってる
    そんな大都市が当時あったのかね
  256. >>626
    >大国だから選ばれたなんて理由こそ何処にも書かれていないよ

    そんな主張してないぞ
    列島最大の国が魏と最も密接に交流していた痕跡があるのだから
    その国が魏と外交交渉していた可能性が高いと言ってるんだ
    人の発言を捏造して反論するな
  257. >>623
    当時の馬韓が50国の連合で約10万戸
    邪馬台国は30国の連合で約7万個と考えるとしっくりくる
  258. >>629
    >密接に交流していた痕跡があるのだから
    それがないらしいんだわ
    纏向遺跡を長年研究したひとがそういうんだから仕方がない
  259. >>631
    ほれ>>200
  260. >>632
    そんなどんなデータかもわからん図を出されても知らんがなとしか
  261. >>633
    基礎知識ないなら議論に参加するな
  262. >>634
    そうやって出所不明の鏡の年代を根拠にするからみんなからバカにされるんだぞ
  263. >>630
    投馬国の5万戸も辻褄が合わないでしょ
    物々交換レベルの商業で5万戸も固まって住めるわけ無いし他の知識が混ざってるのかな
  264. >>646
    いやだから魏志倭人伝にも書かれてるように
    デカい国だから洛陽に連れていかれたわけではなくて
    たまたま丁度いいタイミングで帯方郡に来てたから連れてったってのw
  265. >>643
    日程記載の投馬国と邪馬台国が連合国家ということでしょ
    当時多くの倭人が半島で活動していることはいろんな文献を総合するとわかる。
    魏志倭人伝の30国の記載は壱岐対馬以降の国々なので投馬国は半島南部の倭人の連合国家じゃないか?

    半島南部の倭国連合=投馬国  戸数の規模から20国程度
    北部九州の倭国連合=邪馬台国 約30戸
    その他九州から山陰にかけて50国程度を合わせた100国程度が漢の時代の連合国

    弥生中期から終期の鉄の出土の範囲が100国の連合国家と考えるとわかりやすい
  266. >>647
    だ・か・ら・それはおまえの作り話だと指摘しただろが
    作り話は反論にならない
  267. >>649
    魏志倭人伝のどこにデカい国だから洛陽に連れて行ったと書かれてるのか指摘してみなよw
    無理だから
  268. >>650
    それもおまえの捏造だと指摘済み
  269. >>651
    反論すらできないかw
  270. 魏晋時代の印綬の発掘物と記事を調べるとそのランクは大きく三段階

    王(複数の国を従える国)>帰義(単独の国や集団)>卒善(小規模地域の統治者)

    の順となる
    そして魏晋時代は漢時代よりも飛躍的に印綬の出土が増えてる
    漢時代は北方民族が殆どだが魏晋時代になると多くの地域に配布されてる
    魏晋が周辺民族との関係に心を砕いていることが分かる

    そもそも魏は高句麗や公孫氏と戦っており朝鮮半島方面での勢力関係には強い関心を持ってる
    ただのパフォーマンスによる授与とは考えられない

    邪馬台国は魏から見て複数の国を従える王印を与えるにふさわしい国と見ていたと評価していいだろう
  271. >>653
    作り話と捏造を延々と繰り返してると自覚しなさい
  272. 帯方郡(ソウル)〜狗邪韓国(釜山)・・七千余里
    狗邪韓国〜末廬国(唐津)・・・三千余里 末廬国〜伊都国(糸島市)・・・五百里
    伊都国〜奴国(春日市)・・・百里 奴国〜不弥国(宇美町)・・・百里
    帯方郡〜邪馬台国・・・万二千余里の記載があるので
    不弥国(宇美町)〜邪馬台国までは
    12000-7000-3000-500-100-100=1300里 1里は約75mほどなので
    75×1300=97.5kmとなるので邪馬台国は不弥国から97.5kmほどしか
    無いから福岡県内もしくは佐賀市までの地域にあった事になる。
  273. >>655
    >景初二年六月、倭の女王は大夫難升米を帯方郡に遣わし、
    >魏の天子に朝献したいと請求した。帯方太守夏は、役人を遣わし、
    >これを引率して洛陽に至らしめた。
    >
    >その年の十二月、魏の明帝は詔して、倭の女王に次のように述べた。
    >
    >「親魏倭王卑弥呼に命令を下す。帯方郡大守夏が使を遣わし、
    >汝の大夫難升米と次使都市牛利を送り、
    >汝の献じた男の生口四人、女の生口六人、班布二匹二丈を奉り、
    >わがもとに至った。
    >汝の国ははるか遠いのに、使を遣わし朝貢したのは、汝のわれに
    >対する忠孝の現われで、感心なことである。

    司馬懿が公孫氏を討伐したのは景初二年八月
    帯方郡で待ちぼうけ食らわせられてた難升米たちは問答無用で洛陽に連れていかれましたとさ
    こいつら本当は燕の公孫氏に朝貢するつもりだったと思うよw
  274. 宋なんて文字一文字も入ってないんだよな
    騙されたわ
  275. >>654
    魏が日本の国情を知ってたのかな
    日本人が適当な事を言って鵜呑みにしてただけのような
  276. 日本にとって中国は敵になっても味方になることは無い存在じゃ無いかな
    いろいろくれるから付き合ってただけで
    任那があるからわかんないけど
  277. >>661
    魏が知ってたのは漢のときに100国を束ねる王が倭国にいて友好関係にあったということくらいでしょうね
  278. 数千個の桃の実の発掘で
    纏向が邪馬台国確定になったんじゃないのか?
  279. >>616
    盟主の国の記はない。
  280. >>658
    なりません
    97.5kmだと、熊本県八代から水俣の間になります。又、会稽の東にはなりません。
    要するに距離はあてにできません。
  281. 古代の中国の史書の信頼性の低さを考えろw
    そこへ行くと、ずっと昔のヘロドトスはとも
    かく、タキトゥスなんかずっとましだな。
  282. >>670
    日本の史書より信用出来ると思うがな
  283. 地球が丸い事も知らないんだし正確な地理なんか分かるかよ
  284. >>676
    中国の古地図なんかだいぶ球を空から眺めてるぽい形してるけどな
    結構いい線いってると思う
    https://i.imgur.com/j94qLVE.jpg
  285. >>623
    聞いたのみで
    可なので過大見積もり。
    また県レベルでなく州みたいな単位と考えられる。投馬国 四国、邪馬台国 近畿
  286. >>683
    で、お前の邪馬台国だけ倭国ではなくて
    日本、つまり本州側だという理由は?
  287. >>684
    読めません。丹、橘、鉄、銅 出土もあり
    鉄、銅は、何処から得るのでしょうか?
    又、九州は出入り口ですがね。
  288. >>686
    だから前提が明時代のこの地図
    倭国=九州なら
    と言う前提で話しているんだよ
    お前数学苦手だっただろ?w
    前提条件を無視して読めませんとか
    駄々こねているガキじゃねーんだぞw
  289. >>685
    邪馬台国だけ倭国とは書いていない。
    もと倭国でしょうね
  290. へーこんななったんだ

    自分が訪れた9年ぐらい前は、スラムみたいな県営団地に隣接する雑多な畑にブルーシート被せてるだけだったなぁ
  291. >>689
    何言ってんだ
    例えば伊都国だってイチイチ紹介する時に倭国の伊都国と書いているわけじゃないぞw
  292. >>688
    勝手な前提より
    旧唐書を出すべきですね。
    倭国条
    日本条
    読めばそうなります。
  293. >>692
    旧唐書
    日本は倭国の別種なり

    つまり古代中国にとって倭国とは九州にあった倭人の国を指していた
    が日本という国が現れて、それまでの倭国とは別種だと書いている
    つまり後から勃興した畿内の政権が古代中国が認識していた倭国を飲み込んだと
    捉えることができるんだよね
    つまり魏の時代の邪馬台国についての記述に旧唐書のような特別な但し書きがないは
    邪馬台国も従来の倭国の中にあった国と捉えて間違いない
    つまり邪馬台=九州の倭国の一つ
  294. >>694
    邪馬台国も従来の倭国の中にあった国は共立ですね。もと小国です。魏志では倭国は、本来男王です。女性が2人は異種ですね。
  295. >>697
    旧唐書の
    日本は倭国の別種なりは
    邪馬台国を指して使った言葉じゃなくて
    遣唐使を送って来た大和朝廷に対して使った言葉だぞ
    何でタイムスリップして邪馬台国のことを
    別種だと書いたと思い込んでいるんだよwwww
  296. >>699
    倭国も邪馬台国とは書いていません。
  297. 実際に使者が訪問した
    隋書が参考になります。
  298. >>701
    だからw
    一支国も伊都国もいちいち
    倭国の一支国とか倭国の伊都国とか書かれているわけじゃないんだぞw
    分かっているのか?
    なんで邪馬台国だけ倭国の邪馬台国と書かれていないからといって
    邪馬台国は倭国ではないと言い張っているんだよw
  299. 隋書では本来男王が正統なので
    女王2人の時代「邪馬壹国者」とばれています。
    正統性で疑われたのでしょう
  300. >>705
    そういう妄想を断言されても困る
    元倭国の意味は?
    邪馬台国が神武東征伝説のもとになっているとかがその考えの背景にあるの?
    九州にあった邪馬台国が東征して大和に国をつくっていて
    魏志倭人伝の時代には大和朝廷の元になる邪馬台国を畿内につくっていたとか?w
    ぶっ飛んでいる発想が、その元倭国という言葉にはあるのかな?w
  301. >>706
    史学でお願いします。
    隋書から旧唐書の時系列で話しているので
    東遷、東征は脱線ですね。
  302. >>668
    古代の道は曲がりくねっている為に不弥国から筑後地方に行くにも直線距離の
    三倍はかかる為に約100kmの距離は直線だと40km以内になり
    福岡県内もしくは佐賀市の手前までとなり、邪馬台国は
    吉野ヶ里にあったことが判る。卑弥呼(天照大神)のお墓は
    卑弥呼の出身地の伊都国平原王墓となっている
  303. >>709
    いや、邪馬台国が
    元倭国だったという意味がわからんのだよ
    どういう意味で使っているの?説明してみてよ
  304. >>711
    もとは小国という意味ですね
  305. >>686
    鉄製品や銅製品の出土量が1番多いのは北部九州
    畿内とは圧倒的な差がある。北部九州の倭人が
    朝鮮南部の鉱山に採掘に行った
  306. >>714
    出入り口と紛争地域なので
    が当然ですが
    北部九州の倭人だけが
    鉱山に行った遺跡や文献があるのですか?
  307. >>719
    とうとう壊れたか?
    魏志倭人伝の邪馬台国の話しているのに
    何が元邪馬台国だよw
  308. >>721
    あれ?明の地図の話や旧唐書、隋書はどうしたの魏志も含むけど?
    壊れたのか?
  309. >>724
    何で、お前はこんなに話が通じないんだ?
    単純なことを質問しているんだぞw
    お前が言っている邪馬台国が元倭国と言うのはどういう意味だって
    何で明確な答えが出てこない?
    少しは頭を整理してから書き込めや、知恵遅れ
  310. >>659
    景初二年のとこは梁書や日本書紀や太平御覧など
    他資料では景初三年になってるよ
    そうなると公孫氏が滅亡した後だから
    倭は最初から魏に朝貢に向かっていたという事になる
  311. 倭国という言葉自体が国ではなく地域名だよ
    バカばかり
    だいたい中国の水準から見れば国家の体を成していない
    部族共同体レベルなんだから
  312. 邪馬台国=九州北部
    大和朝廷=近畿
    で別々の国だろ
    魏志倭人伝にも「東に別の倭人の国がある」と書いてるしな
  313. 九州説は日本の歴史をよくわかってないようだ
  314. >>733
    静岡と推測だな。関東まで鉄分布ある。
  315. 日本にとって中国はいろいろくれるから付き合ってただけのような気がするがなあ
  316. 魏志倭人伝の時代には邪馬台国が倭国ではなくなっているという ?

    言っていないよ。
    女王国の後の時代では?
  317. 鉄は北部九州でも貴重品だったので北部九州でも不足していたが
    銅製品は豊富にあったので奴国の須玖・岡本にあった工房で
    作った銅製品が本州に出回っている
  318. >>742
    お前らトンデモは、疑問が尽きないようだなぁ。  まぁ、トンデモなんだから無理もない。   @阿波
  319. >>743
    健忘?
    女王国の後の時代ではないか?
    と書いているが?
  320. >>749
    お前の主張をまとめると
    魏志倭人伝には邪馬台国は倭国と書かれていないから
    邪馬台国は元倭国と主張

    オレはその主張に対して意味がよくわからんな
    元倭国とはどういう意味か?と訊いているのに
    明確に答えられない
    元倭国と言うことは邪馬台国は魏志倭人伝の時代には
    倭国ではなかったという意味になる

    お前は自分が言っている言葉の意味も分からずに言葉を使っているだけの馬鹿なのか?
  321. >>752
    魏志倭人伝には邪馬台国は倭国ですよ。
    図が女王国の後の時代ではないか?
    と言っているが?
  322. >>762
    否定していないのか?
    つまりお前の主張は
    魏志倭人伝の時代には
    邪馬台国は九州にあったが
    後の時代に東遷なり、東征して
    邪馬台国が大和王朝になったと
    これがお前の主張でいいってことか?

    つまり魏志倭人伝の邪馬台国は
    九州にあったってことね
  323. >>765
    九州とは限りませんが?
  324. >>769
    だからさ
    お前の考えをまとめてみろよ
    一行レスしかできない小学生かよw
  325. 崇神天皇 = 四道将軍を派遣して本格的な統一事業が開始
    垂仁天皇 = 纏向に都を作る。九州の国政に関与
    景行天皇 = ヤマトタケルを派遣して九州から関東まで平定 (列島の鉄の利権抑える)
    神功皇后 = 土蜘蛛(邪馬台国)滅亡させる。朝鮮半島南部まで平定 (半島の鉄の利権抑える)


    垂仁天皇が伊支馬っぽいので、この時すでに九州の国政に関与してて
    景行天皇の時に九州で従わない熊襲をヤマトタケルに潰させて
    神功皇后の時に九州の覇権国だった土蜘蛛(邪馬台国)滅亡させて、ついでにその権益の半島南部(三韓)も潰した。
    中国に権威づけされた邪馬台国(ヤマト)をそのまま大和(ヤマト)としてなりすまして倭国代表の大和朝廷が成立。

    だいたいこんな感じでしょ、きっと。
  326. 神武東征後だから
    邪馬台国はすでに広範囲だったと思うなぁ
  327. 邪馬台国と大和朝廷を別の国として捉え直すと、見事に古代史の説明がつくんだよな
  328. 邪馬台国と大和朝廷を同一視する教育って、戦後に始まったの?
    それとも戦前からそうだったの?
  329. 「白い神」ならぬ「黥面の神」。
    南の海洋人の単なる魔除けが瀬戸内の人間には神に見えて面を作り、土器にも記し崇めたのだろう
  330. >>782
    考古学的な発掘調査の進展によって
    魏志倭人伝に書いてる邪馬台国とは大和国のことである事が
    確実な情勢になりつつあるからそう学校の教科書にも載るんだよ
  331. >>786
    学校の教科書に
    邪馬台国は畿内にあったなんて載っているか?
    載っていなかったと思うけれど
  332. て事は戦前は「邪馬台国と大和朝廷は別の国」と教えてたのか
    そっちの方が辻褄が合ってると思うな
  333. 倭=ヤマト=邪馬台=日本なんだと思われるね
    魏志倭人伝の「女王国」は九州北部にあったけれど、「邪馬台国」は畿内なんだろう
    どうしてかというと、陳寿の手許資料の最新版には266年以降のものもあったから。
    それ以前の239年以前資料との隔たりが27年間以上もある。
    この間に、倭という中国側の別称しかなかった地域名であり、民族名であった「倭」を
    クニの連合体に敷衍していた概念が、大和の地名に由来する政権名とが結びついた。
    シナは音表記するから「邪馬台」と、あたらしい漢字を一カ所だけ用いた。
  334. >>795
    >魏志倭人伝の「女王国」は九州北部にあったけれど、「邪馬台国」は畿内なんだろう

    すげ〜、トンデモだな。  そんで、どっちも間違いというお粗末。 どうにもならんヤツだな。  わははははは   @阿波
  335. 邪馬台国と大倭は別の国なのか
  336. >>3
    卑弥呼が魏から下賜されたと考えられる金印が発見されたら
    決定的な根拠になるな
    それを発掘
  337. >>797
    これぐらいトンデモでないと面白くはないだろ
    でも、説明力は高いぞ。
    阿波よりは。
  338. >>800
    だいたい大倭って名称を後の大和王朝に結びつけて
    妄想している奴がいるけれどさあ
    大和王朝は元々は倭と国名を表記していたのを
    後に好字二字化令 で大倭としただけだからな

    魏の時代から大倭と名乗っていたわけじゃないのに
    たまたま文字が一致したからといって後の大和王朝だと決めつけるのは
    ただのトンデモwwww
  339. 卑弥呼は神武天皇よりも五十年ほど早い時代の女性なので
    卑弥呼が奈良にいた可能性は全く無い、その頃は
    吉野ヶ里で占いの真っ最中
  340. >>764
    大琉球・小琉球と書いてある。四国はこの地図ではどこかわからんよ。
  341. >>794
    教えてもないし辻褄も合わないよ
  342. >>801
    まあ、古墳の年代や
    手付かずの状態でないと確定できない。
    なんせ、時の権力者に物が集まる。
    日光東照宮とかで発見とかあったりして?
  343. >>805
    大倭としてたのを
    漢字がわかるようになって倭には小さいという意味がある事を知って
    倭を和に変えて大和だよ
  344. >>810
    「倭」が四国で「日本国」が本州だ。 「大琉球」が九州だな。   @阿波
  345. 瀬戸内海ルートの開闢インパクトは、讃岐や阿波が邪馬台国なんじゃないかと勘違いする後世の人物が現れるくらい衝撃的だったろう。
    日本海ルートが絶えたわけではないんだけれど、畿内を押さえつける瓶の蓋としての機能を喪失する。
    瀬戸内海連合が年々強化されるし、吉備と出雲の絆も切れるんだね。
    出雲からタケミナカタが諏訪に逃亡なんていっているけれど、出雲から新羅にも逃亡しているよ。
    そもそもスサノオとその息子のイソタケルが新羅(当時は斯蘆)に天孫降臨したことになってるのは、たぶんこのインパクトを受けた逃亡だからね。
    新羅神話では建国の祖が倭人、第四代も倭人の王だ。
    日本海ルートは新羅、ここ試験に出ます。
    これ以降の歴史もここを抑えないと読めない。新羅と百済の対立の影響は、なんと武家政権誕生にまで及んでいる。
  346. >>810
    「小琉球」が南西諸島   「小人国」が大東島諸島だな。   @阿波
  347. >>813
    女に委ねるという意味も悪くとったらしいな
    天皇家は代々男尊女卑の文化だから
  348. >>817
    台湾?
  349. >>820
    台湾は、「獅子國」だな。   @阿波
  350. >>812
    古墳の九割以上が盗掘にあっている。
    破壊され売り物になる宝玉や金だけ採られているってのも多いだろうな
  351. >>814
    大琉球が沖縄本島で小琉球は八重山か先島諸島のいずれかだよ。明代の地図なので倭はおそらく倭寇の本拠地という推定で描かれている。
  352. >>827
    小琉球(しょうりゅうきゅう)

    「台湾の名称の一覧」も参照
    中国大陸から見た台湾の歴史的な呼称。大琉球(琉球王国)に対して使われた。
    台湾本島の西方約14kmに位置する離島、琉球嶼(中華民国屏東県琉球郷)の別名。

    台湾のことだろ
    wikiには台湾と出ている
  353. >>819
    魏志では其國本亦以男子為王だしな。
    女王国出せば、正統性が崩れる。
  354. >>771
    そうなると、御馬城が親で生目がその子供という記紀の設定を肯定しなければならず、
    実際は御馬城が副長官で生目が長官だった魏志倭人伝の記述と合わなくなる。
  355. >>62
    自由な考え思想さえ制限されてる国が、井の中の蛙w
  356. >>830
    台湾より沖縄のほうが扱いが大きいのか!
    なんか意外だね。
  357. >>771
    崇神天皇の四道将軍派遣は脚色が大きいだろう。
    丹波道主王に関しては他にも記述があるが、他の将軍に関しては大彦王以外は
    ほとんど記載はない
    しかも派遣したとあるだけで、戦いがあったとの記録もないからな
    四道将軍の派遣というが、実態はいくつかの国々が畿内を盟主とする連合に加わった
    そんなところが史実だと思う

    垂仁天皇に関しては記録が乏しいが。この時期にあった沙穂彦王の乱など考えれば
    畿内の対立が終息したってところかな。

    景行天皇やヤマトタケルに関しては実在はしてないと私は思っている。
    恐らく応神天皇への王統の革命があり。そこから記載されたのではないかとな
  358. 魏志倭人伝の記述と合わない九州説がこの先生きのこるには?
  359. >>838
    魏志倭人伝の記述に合わないのは
    南と表記されているのを東だと改変しないと畿内にたどり着けない畿内説のほうだろ?
    一方九州説のほうは距離方角は合っている
    それまで距離表記だったのが日数表記になったのを
    総旅程に罹る日数のことだと判断するとつじつまが合う

    魏志倭人伝に書いていることが間違いだとしないとつじつまが合わない畿内説のほうが記述に合わないだろ?
  360. >>840
    短里とかいう架空の単位を捏造したり、日数を帯方郡起点にする曲芸読みをやって、合ってることにしてるだけな
    そんなインチキが通用するのは、5ちゃんねるの狂信的九州説信者の間だけ
  361. つまり畿内説を取ると
    方角も魏志倭人伝と矛盾する
    単里を取らなくても、距離でも矛盾する
    周辺国との位置関係も矛盾する

    畿内説が魏志倭人伝に合っていると思っているバカがいる方が不思議だw
  362. ハッキリ言って、九州説で合うのは方角だけ
    それ以外の記述はことごとく不一致
  363. >>863
    倭人の風習に関する記述が九州で一致してるやん
    邪馬台国からは絹が献上されてるけど畿内には養蚕もない
  364. 畿内説は理論として破綻したので、
    これから先にこれを唱える考古学者は
    居なくなるだろう。
    教科書にも邪馬台国は北部九州の王朝と
    ハッキリ明記されるようになる。
  365. >>865
    倭人の風習は邪馬台国とは無関係
    その倭人の風習を持ち出して、九州の根拠だと言い張るのは、九州説の典型的なインチキ論法
  366. まず、魏志倭人伝に書かれている邪馬台国についての主な記述を列挙する

    ・30国連合の盟主の国
    ・戸数7万戸
    ・邪馬台国連合で戸数15万戸以上
    ・北部九州から南に水行二十日、さらに南に水行十日陸行一月
    ・帯方郡から12,000里
    ・会稽東冶の東の位置
    ・宮室、楼観、城柵
    ・従者1000人が仕える宮殿
    ・卑弥呼の墓が径百歩
    ・殉葬100人
    ・一大率を伊都国に置き、一大率は刺史に例えられる
    ・魏と外交を行い、卑弥呼は親魏倭王の称号をもらう
    ・魏から金印や銅鏡100枚をもらう
    ・東に海があり、渡海1000里で倭種の国
    ・国名が邪馬台国の発音に近い

    魏志倭人伝には邪馬台国についての記述だけではなく、倭国の産物や植生、倭人の生活や風習なども書かれている
    大人・下戸などの身分があり、刑罰や税の制度もつくられ、倭人は貫頭衣を着ているとか、鉄鏃・骨鏃を使うとか
    漁労民のような生活をしてるとか、有棺無槨の葬制だとか、骨を焼いて占いをするとか
    しかし、こういう記述は倭人一般についてなので、邪馬台国とは関係ない

    邪馬台国についての記述の中で、九州説で合致するのは、行程記事の一部である「南」のみ
    あとは、吉野ヶ里を比定地にした場合限定で「宮室、楼観、城柵」と
    福岡県東部あるいは大分県に比定し、かつ距離や考古学的事実を無視した解釈で「東の海から1000里で倭種の国」だけ
    これ以外の邪馬台国についての記述は、九州説ではすべて不一致になる
  367. >>871
    で、畿内説の場合は邪馬台国はどこから絹を調達してきたの?
  368. 九州説は魏志倭人伝の邪馬台国についての記述と不一致になる
    だから代わりに倭人の風習についての記述を持ち出してきて、九州説の根拠だということにする
    鉄が多いとか、漁労民のような生活をしてるとか、有棺無槨は甕棺だとか
    しかし、こういう倭人一般についての記述は邪馬台国とはまったく関係ない
  369. >>846
    実際に魏志倭人伝の行程記録でも使われているのに畿内説では存在しないことになってるのか。
  370. >>878
    架空の距離単位が存在したと言い張ってるのは、頭の逝かれた狂信的な九州信者の間だけ
  371. ・九州説は魏志倭人伝の邪馬台国についての記述と不一致になる
    ・九州説信者は、魏志倭人伝の中から邪馬台国と無関係な記述を持ち出してきて、九州説の根拠ということにしてる

    もちろん、こういうインチキ論法は学者には通用しない
  372. >>889
    年代のズレたものを根拠にするのも典型的な九州説のインチキ
  373. 魏志倭人伝の行程記事によると
    九州は通り過ぎてる
    九州は邪馬台国に向かう途中の通過点だったんだよ
  374. >>890
    苦情は京都工芸繊維大学の教授に言ってほしいけど
    ちなみに何年ずれてるの?
  375. >>892
    7000里要してる帯方郡や狗邪韓国はどの辺なのよ
  376. >>892
    不弥国止まりです。なので水行は大雑把。
    水行20日、10日、1月となる。
    まあ、魏志限定だと奄美沖縄説、東は三重あたりまで。
    東から千里も大雑把で静岡あたり。
  377. >>888
    畿内説も魏志倭人伝の記述と全く合わない
    纏向は魏との交流の形跡がろくにないと纏向の専門家が言っている
    三角縁神獣鏡は研究が進めば進むほど国産説が濃厚になっていく
  378. >>895
    畿内説では陸行一月はどこからどこまでよ?
  379. >>897
    だから、「阿波」一択   @阿波
  380. >>893
    布目氏の説は50年も前の説だから弥生時代の年代観が現在と100年近くずれてるはず
    そんなものを今更持ち出してくるのは、無知なのか騙そうという悪意があるかのどっちかだろう
  381. >>897
    作り話と捏造を延々と続ける壊れたテープレコーダーは邪魔だから絡んでくるな
  382. >>894
    帯方郡は今の韓国のソウルあたり
    狗邪韓国はプサンのあたり
  383. >>903
    3000里で日本上陸でしょ
    残り2000里だけど
  384. >>898
    魏志限定では、奄美沖縄説ですがね。
    諸島での陸行の総合計。30の島回れば1月です。
    まあ、陳寿の地理観です。
    なんで畿内でもないのに聞くのか?
  385. >>897
    実際は逆に
    三角縁神獣鏡は研究が進めば進むほど中国の洛陽でも見つかったりして
    鏡に銅出徐州 師出洛陽と彫られてる通りに
    魏の徐州の銅で作られて洛陽の鏡師が作ったものという事が確実になりつつある
  386. >>907
    その辺は陳寿もよくわからないと言ってる
  387. 北九州からの亡命政権だったことが明らかにされるだけだから諦めろって
  388. >>905
    九州から二千里つまり660kmは畿内に十分到着する
  389. >>912
    ソウルからプサンが7000里なんでしょ
  390. >>908
    洛陽で見つかった鏡は調査拒否し続けてるらしいやん
    日田の鏡以下で研究者たちからずーっと保留扱いなかったことにされてるとか
  391. 女王国以北は詳細を得ているがそのほかは遠くてよくわからない
    そしてよくわからない国が21国も列記されている。

    そして行程記録に詳細が記載されてるのが6国が表記されており、その比定は考古学的に福岡近辺に限定されている。

    ここから水行20日の投馬国と水行10日陸行1月の邪馬壱国を行程の続きと読むと明らかにつじつまが合わなくなる

    後に出てくる女王国まで万2千里という記述と、女王国の北の伊都国一大卒を設置ということから日程は行程の続きと読めないことがさらに裏付けられる。

    総日程を併記していると解釈すれば、方角と距離、のちの記述との整合性がすべて一致する。
  392. >>915
    日本の研究者が現地に行ったのに化学分析検査を断られたってね
    個人所有で中国の研究者にも相手にされてない鏡なんでしょ?
  393. >>916
    丹、橘で崩れる。鉄、銅の出土でも崩れる。
    日本海沿い、関東まで鉄器出土
  394. >>912
    なるほど畿内はないな
  395. 素人でも畿内説はおかしいと分かって
    もう誰も信じてないのに、今だに募金までして推し進めようとする学会はなんなんだろうな。
  396. >>913
    それなら九州から畿内まで二千里とも言える
  397. >>916
    曲芸読みの典型だな
    里数表記と日数表記を併記してると言うが、行き先の国名も違う、戸数も違う、方角も違う
  398. あわわわわ崇徳可汗👑🐴
  399. >>927
    あると思ってたんだろ
  400. >>924
    あきらめろ
  401. >>931
    ここの距離を間違うか?
    思うとかじゃなく実際に邪馬台国に行った使者の記録でしょ
  402. >>932
    何を諦める必要があるのかな
    魏志倭人伝の里数は九州北部に上陸した時点でまだ1万里
    そこから二千里はどっかに行くと書いてある事になる

    つまり魏志倭人伝は
    九州北部を邪馬台国とは書いていない事は確実
  403. >>926
    行き先の国名ってなんぞや?
    魏志倭人伝によると邪馬壹國は、日程表記の1度しかなく、あとはすべて女王国とある。
    戸数は30国の総戸数で規模も一致
    帯方郡からおおよそ南であってるぞ
  404. 可汗という単語は
    柔然よりも前にも、
    使われていたようだ。
  405. >>936
    それならその結果
    ソウルからプサンまで七千里つまり2300kmあると思ったんだろ
    そうでなければ記録に書かれないからな
  406. 魏晋南北朝史学会の副会長も、日付のところが別の資料からもってきてると指摘
    https://i.imgur.com/CV96DlX.jpg
    >女王国東渡海千余里があてはまるのは九州
  407. >>939
    ソウルからプサンが2300�q (実際300km)
    九州から畿内が660km (実際660km)

    なんで自国に近い方の距離をこんな大幅に間違うんだよ。
  408. >>899
    地図もまともに読めないのに無駄に自信満々で笑える、もっと修行しなさい。
  409. >>945
    朝鮮半島は水行で行ったからだろう
    当時中国では1日の移動距離を60里ほどと考えていて
    外洋に接する朝鮮半島を船で陸伝いでの移動はそのくらい時間がかかった

    これは一方で九州から畿内へ移動する場合には
    瀬戸内海という穏やかな内海を航行したと考えれば
    朝鮮半島の距離は過大で九州から畿内への移動は普通という事の説明がつく

    ちなみに当時の距離は定規で直線距離を測ったようなものじゃなくて
    移動にどれだけ時間がかかったかで距離が算定されていた
    例えば直線距離で10里でも
    それが山道など険しい道ならかかる時間が伸びるので20里と表記される
  410. 台湾大学政治学教授
    https://i.imgur.com/AK8qs7F.jpg
    >当時の認識では長江の東は九州だった
    >邪馬台国が伊都国から遠く離れていることは考えられない
  411. >>940
    >行き先の国名ってなんぞや?
    里数表記 狗邪韓国から不弥国まで
    日数表記 投馬国と邪馬台国

    >戸数は30国の総戸数で規模も一致
    里数表記 1000戸や4000戸、20000戸など
    日数表記 50000戸と70000戸

    >帯方郡からおおよそ南であってるぞ
    里数表記 南と東で倭人伝最初の東南と整合性あり
    日数表記 南のみ

    こういうデタラメをやって、合ってる合ってると連呼するのが九州説信者
  412. >>950
    そこまで当時の測量技術をバカにはしてない
    距離と方角はちゃんと測ってたんじゃないか
  413. >>936
    実際に、「阿波」までな。   @阿波
  414. >>952
    お前は日程併記論がまったく理解できてないだろ
    投馬国は半島に存在する倭国の連合
    邪馬台国は九州北部に存在する倭国の連合(今使譯所通三十國)
    戸数はそれぞれの総戸数ということだ
  415. >>951
    だから、卑弥呼が共立され北部九州に
    定住という考えがないだけ。
  416. >>942
    帯方郡(沙里院市)
    ↓【南】海岸水行7000里( 直線距離 500km)1里=71m
    狗邪韓国(順天)
  417. >>953
    なんで近畿の邪馬台国も北部九州も
    女王国でせ?伊都国にいたかもね。
  418. >>950
    えーと、つまり…
    ソウルからプサンまで4ヶ月かかって
    九州から近畿まで1ヶ月だったと

    そういうこと?
  419. >>949
    いくら喚いても、「阿波」一択   @阿波
  420. >>954
    魏志倭人伝に書かれている距離がなんで急に変わるの?
    渡海に3000里だからその半分くらいの距離でしかないのに
  421. >>965
    そういう事だろうな
    道や港もロクに整備されてないような時代だったからな

    >>968
    昔はよく距離が伸びたり縮んだりしてたんだろ
  422. >>964
    女王国以北って字が読めないのですか?
  423. >>958
    その作り話の証拠は?
    ただの作り話をしたいだけなら、おまえに用はない
  424. >>972
    道に迷ったら帰れないのは当たり前だろ
  425. 「邪は伊都に届き、傍ら斯馬に連なる」
    広志いわく、倭国東南陸行五百里、伊都国に到る。また南、邪馬嘉国に至る。
    女(王)国より(自)以北は、その戸数、道里を略載できる。

    ※「翰苑」は大宰府天満宮に伝世されたもので、唐の張楚金の撰、雍公叡の注
    ※「広志」は晋の郭義恭の著作
  426. >>974
    自分が今何処に居るか把握して無いと帰れねえじゃん
  427. >>973

    >>916
    から始まってる
    文章全体のつじつまを合わせるには、日程は行程続きと読むことができないということ
  428. >>971
    どう解釈しているのか?
  429. >>976
    おう自分が今何処に居るか把握して無いと帰れないよ
  430. >>976
    心配すんな。  倭国(阿波)は、朝鮮半島へしょっちゅう行ってるから、安心しろ!   @阿波
  431. >>971
    卑弥呼がいる場所の記もないが?
  432. >>977
    矛盾だらけの曲解のゴリ押し
    曲解をゴリ押ししたければ、最低限何らかの物証が必要
    しかし何も物証を提示せず、曲解のゴリ押し、ゴリ押し、ゴリ押し
    まあ九州説信者らしいけど
  433. >>970
    そんなかかんねーよ
  434. >>977
    「自郡至女王國萬二千餘里」
    なぜ魏志倭人伝で、「從郡至倭・・・」の行程記述とは別に、「自郡至女王國萬二千餘里」が ポツンと 分離して書かれているのだろうか?
    それは、行程記述と「自郡至女王國萬二千餘里」が、別事項だからである。
    「自郡至女王國萬二千餘里」は、帯方郡から女王国までの距離が、「直線距離」で一万二千余里を特記したもの。  
    だからことさら、行程記述とは切り離して記述している。  
    その心は、帯方郡から女王国までの距離が、「直線距離」で「萬二千餘里」だと言いたかったから。    
    その心は、帯方郡から女王国までの距離が、「直線距離」なのであって、間違っても決して「行程里数加算距離」と取られないため。   @阿波
  435. >>977
    「自郡至女王國萬二千餘里」

    なぜ魏志倭人伝で、「從郡至倭・・・」の行程記述とは別に、「自郡至女王國萬二千餘里」が ポツンと 分離して書かれているのだろうか?
    それは、行程記述と「自郡至女王國萬二千餘里」が、別事項だからである。
    「自郡至女王國萬二千餘里」は、帯方郡から女王国までの距離が、「直線距離」で一万二千余里を特記したもの。  
    だからことさら、行程記述とは切り離して記述している。  
    その心は、帯方郡から女王国までの距離が、「直線距離」で「萬二千餘里」だと言いたかったから。    
    その心は、帯方郡から女王国までの距離が、「直線距離」なのであって、間違っても決して「行程里数加算距離」と取られないため。   @阿波
  436. >>989
    そんなに大事なことではないから2回も言わんでいいよ
    萬二千餘里を直線距離だと推測することはできるだろうけど

    自女王國以北 其戸數道里可得略載 其餘旁國遠絶 不可得詳

    というのがあるから、行程表記である距離戸数から飛んでいくという解釈に無理がある
  437. >>993
    「其餘旁國」にかぎり、遠すぎてよく分からんといってるんだから、
    距離戸数から飛んでいくという解釈は当たり前。   @阿波